「社会ファシズム論」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 15:02 UTC 版)
「エルンスト・テールマン」の記事における「「社会ファシズム論」」の解説
1928年の第6回コミンテルン世界会議が「社会ファシズム論」を強化させて社会民主主義を主敵と定める方針を採択すると、テールマン率いるドイツ共産党もドイツ社民党への闘争を強化した。この極左戦術で共産党の過激化が強まり、特に党の実力組織である赤色戦線戦士同盟は荒れ狂い、ナチスの突撃隊(SA)や社民党の国旗団と武力衝突を起こす事が増えた。 1929年5月の血のメーデー事件(ドイツ語版)を機に社共対立は絶頂に達した。社民党政府は赤色戦線戦士同盟を非合法化したり、共産党集会を禁じたりするなど共産党への弾圧を強化し、共産党は「社会ファシズム論」にますます傾斜した。1931年夏にナチ党がプロイセン州社民党政府打倒を狙って起こしたプロイセン州議会解散を求める国民請願運動には共産党も参加するなど、社民党に対する闘争の範囲内においては、ナチ党との共闘も厭わなくなっていった。 1929年から1930年にかけては社民党系労組中央組織ドイツ労働組合総同盟(ドイツ語版)(ADGB)の分裂を促し、共産党系労組中央組織革命的労働組合反対派(ドイツ語版)(RGO)を結成させた。
※この「「社会ファシズム論」」の解説は、「エルンスト・テールマン」の解説の一部です。
「「社会ファシズム論」」を含む「エルンスト・テールマン」の記事については、「エルンスト・テールマン」の概要を参照ください。
- 「社会ファシズム論」のページへのリンク