「党の武装化」方針による軋轢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/03 03:31 UTC 版)
「武装共産党」の記事における「「党の武装化」方針による軋轢」の解説
1930年1月、佐野らは和歌浦近くの別荘で拡大中央委員会を開き、警察当局による「白色テロ」に対抗するための「党の武装化」、すなわち武装して自衛しながら大衆の前で公然活動するという方針を採択した。この方針は、コミンテルン第6回大会における「合法無産政党有害論」や「社会ファシズム論」に影響され、「革命近し」という誤った情勢判断に基づいて採択された、大衆運動を軽視する極左的冒険戦術であった。これにより合法左翼組織の存在は否定されて非合法組織である共産党およびその系列団体に吸収されることとなり、例えば当時最大の学生運動団体であった新人会も、「戦闘的解体」と称して非合法の日本共産青年同盟に吸収された。共産党は第2回普選をめざしてビラまき活動を行ったが、しばしばピストルなどの武器使用による警察官の死亡傷害事件が起こっている。2月には関西の組織が摘発されたが、別荘に潜んでいた佐野と田中は間一髪逃走して、シンパを伝って東京に戻った。ここでも中本たか子、片岡鉄兵、広津和郎、生田春月、横光利一、今東光、大宅壮一、宇都宮徳馬などのシンパが彼らを匿っている。4月、佐野がピストルを発射したため逮捕されて、田中1人が幹部として残った。 共産党の方針に基づき、同党の支持組織である日本労働組合全国協議会(全協)は労働争議・デモ行進における「武装」を実行し、1930年4月には東京市電争議での「武装行動」、同年5月1日には川崎武装メーデー事件を起こしたが労働者の支持を得ることができず、逆に大衆からの反発を買う結果となった。このような事態を憂慮した全協の活動家の神山茂夫・佐藤秀一らは6月に「全協刷新同盟」を結成、共産党から押しつけられた極左路線を拒否するなど、全協内部での分派闘争が激化した。
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