「入ソ後最悪の1年」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/18 05:34 UTC 版)
一般の抑留者は戦争捕虜に準じる扱いを受けていたのに対して、石原は以後、刑法違反による犯罪者として扱われることになったので、一般抑留者とは比べ物にならないくらい過酷な待遇を受けることになる。 この年(1949年)を後に石原はエッセイ集『海を流れる河』の年譜の中で「入ソ後最悪の1年」と書いている。 同年9月、石原はストルイピンカで、カラガンダから3日かけてタイシェトのペレスールカ (中継収容所) へ移送され、そこに約2ヵ月間収容された。ここで石原は鹿野に再会したが、この時にはほとんど言葉を交わしていない。 その後10月末に再びストルイピンカで移送され、バム鉄道を北上、タイシェト (バム鉄道とシベリア鉄道が分岐する町の名前) 近郊のラーゲリ (コロンナ33) に収容され、ここで強制労働 (材木の伐採) させられた。バム鉄道周辺に作られたラーゲリでは囚人を、「枕木1本につき1人の死体」がでる、と言われたほど過酷な労働に従事させており、コルィマ地方のラーゲリと共に非常に恐れられた。 伐採期間が終わると、1950年(昭和25年)4月に石原はコロンナ30へ移送され、今度はここで流木、土木工事、鉄道工事、採石などに従事させられた。
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