過酷な待遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:53 UTC 版)
「皇国殖民会社」が移民希望者を募る際に、ブラジルでの高待遇や高賃金をうたったために、移民の殆どは数年間の間コーヒー園などで契約労働者として働き、金を貯めて帰国するつもりであった。しかし、先に移民して来たイタリア人同様、日本人国移民も奴隷解放令に伴う労働力不足を補うために導入されたもので、法律上の地位こそ自由市民であったものの、一部のコーヒー園を除くとその実生活は奴隷と大差ないものであった。 実際に居住環境は悪く労働は過酷で、賃金の悪さなどの待遇が悪かったために、帰国のための貯金どころではなく借金が増える一方であった。当時の農園主はこのようにして、小作人を土地に縛り付けた。このため、日系移民の間で移民計画を「棄民」(日本国に棄てられた民)と揶揄する声がでた。 この様な待遇の悪さや賃金の悪さから、皇国殖民会社に対して帰国を申し出る者が出た他、ストライキや夜逃げも多く発生し、リオ・デ・ジャネイロ州などの近隣州やアルゼンチンへと渡る者もあらわれ、1909年に外務省の野田良治通訳官が調査した結果、笠戸丸で移民し、当初契約したコーヒー園に定着したのは全渡航者の4分の1のみであったと報告されている。日本人移民のストライキは少なかったが、夜逃げは多かった。
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