過酷な処分とは? わかりやすく解説

過酷な処分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 16:36 UTC 版)

橘奈良麻呂の乱」の記事における「過酷な処分」の解説

東人供述により、7月4日7月28日)に奈良麻呂を始め道祖王黄文王大伴古麻呂、多冶比犢養(たじひのこうしかい)、賀茂角足(かものつのたり)ら、一味に名を挙げられ人々直ち逮捕され、永手らの訊問受けた訊問が進むにつれ、全員謀反白状した奈良麻呂は永手の聴取に対して東大寺などを造営し人民辛苦している。政治無道だから反乱企てた。」と打ち明けたこの後すぐに獄に移され、永手、百済王敬福船王監督下、全身を打つ拷問が行われた。道祖王(麻度比と改名)、黄文王(久奈多夫礼と改名)、古麻呂東人、犢養、角足(乃呂志と改名)は同日過酷な拷問に耐えかねて次々と絶命した。また首謀者である奈良麻呂の名が『続日本紀』残されていないが、同じく拷問死したと考えられる安宿王佐渡島大伴古慈悲藤原不比等娘婿)は土佐国配流され(両者ともその後赦免)、塩焼王直接関与した証拠がなかったために不問とされ、後日臣籍降下(「氷上眞人塩焼」と改名)している。反乱計画直接関与していなかったものの全成は捕縛され奈良麻呂から謀反もちかけられ顛末自白した上で自害した。他にもこの事件連座して流罪徒罪没官などの処罰受けた役人443人にのぼる。また、右大臣藤原豊成息子乙縄とともに事件関係したとして大宰員外帥左遷された。また、中納言藤原永手も、その後麻呂派で固められ朝廷内で政治的に孤立し逼塞余儀なくされたと言う説がある。豊成・永手らは反仲麻呂派であると同時に奈良麻呂らの標的とされた孝謙天皇側近であった人々であり、天皇廃立企てた奈良麻呂らに対して過酷な尋問拷問行った人々であった一連の処分終わった8月18日9月6日)に孝謙天皇元号を「天平宝字」と改元して体制立て直しを図ることになった

※この「過酷な処分」の解説は、「橘奈良麻呂の乱」の解説の一部です。
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