反乱計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:39 UTC 版)
焦燥を深めた押勝は軍事力により孝謙と道鏡に対抗しようとし、天平宝字8年(764年)9月、新設の「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」に任じられた。諸国の兵20人を都に集めて訓練する規定になっていたが、押勝は600人の兵を動員することを決めると、大外記高丘比良麻呂に命令の発令を指示した。押勝は都に兵力を集めて軍事力で政権を奪取しようと意図していた。このとき押勝は太政官印の確保に成功している。9月5日には、仲麻呂は船親王と謀議し、朝廷の咎を訴えようと図った。また池田親王はすでに夏頃より兵馬を集結していた。両親王ともに、仲麻呂が擁立した淳仁天皇の兄弟であった。 ただし、木本好信は孝謙側も授刀衛を掌握して権力掌握の動きを見せたために仲麻呂は「自衛」のために兵の確保を目指した可能性があるとした上で、元々日常の小事の決裁に関しては天皇の内印を求めず太政官印で処理しても良いことになっていた(『続日本紀』養老四年五月癸酉条)ことから、仲麻呂本人には元々反乱や権力奪取を計画する意図はなく、「自衛」のための小規模な兵士の増員も小事の範疇である考えて命令したものが、命令の発令前に公文書の審査を行う立場の比良麻呂はそれを小事の範疇とは考えなかったのではないか、としている。 高丘比良麻呂は後難を恐れて、孝謙に動員計画を密告した。平素押勝に信頼されていた陰陽師の大津大浦も押勝の叛乱を知り、その旨を密告した。また和気王からも反乱計画が伝えられた。
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