反乱軍の動きとは? わかりやすく解説

反乱軍の動き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:37 UTC 版)

ナヤン・カダアンの乱」の記事における「反乱軍の動き」の解説

1287年至元24年2月よりナヤン反乱のための準備開始しており、ナヤン遼東方面徴兵行っていると報告受けたクビライチェリク・テムルナヤン軍備増強阻むよう命じている。『集史』の伝える所によると、反乱を起こすにあたってナヤン各地諸王使者派遣して自らに呼応して挙兵するよう要請し、これにオゴデイ・ウルスカイドゥ、コルゲン・ウルスのエブゲン、コデン・ウルスの王族(イェス・ブカ)が応えた中でも長年クビライ対立してきたカイドゥこの機に乗じて大規模な侵攻を行う予定で、『東方見聞録』によるとナヤンの乱呼応するため10万騎兵招集したという。 一方東道諸王本領たるヒンガン山脈東麓からは大きく分けて2つ軍団南下始め反乱軍中核にあたる軍団首謀者ナヤン自身が、反乱軍左翼に当たる別動隊カサル家当主シクドゥルそれぞれ率いたナヤン軍は遼河北方地域現在の内蒙古自治区赤峰市一帯)を西に進軍し直接クビライ住まう上都を衝き、シクドゥル軍はまず遼東一帯制圧した後に遼河渡って遼西入り中国本土を目指す予定であったとみられる結果としてクビライ軍が反乱軍接触する頃には、カラ・ムレン(シラ・ムレン支流以東、スンガリ川(松花江流域一帯反乱軍占領地史料上では「乃顔之地」と称されるとなっていた。 また、カチウン家当主たるシンラカルとコルゲン家当主エブゲンモンゴル高原駐留しカイドゥ軍の侵攻備え北安ノムガン指揮下にあり、反乱開始後にノムガン軍を内部撹乱する手はずで、最終的に西方から進軍してきたカイドゥ軍とノムガン軍を挟み撃ちにしてモンゴル高原制圧し反乱軍右翼として南下する予定であったこのようにナヤン各地諸王協力要請した結果、「ナヤンの乱」はモンゴル帝国西端ジョチ・ウルスフレグ・ウルスを除く全てのウルス参戦する大規模な戦乱となった

※この「反乱軍の動き」の解説は、「ナヤン・カダアンの乱」の解説の一部です。
「反乱軍の動き」を含む「ナヤン・カダアンの乱」の記事については、「ナヤン・カダアンの乱」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「反乱軍の動き」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「反乱軍の動き」の関連用語

反乱軍の動きのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



反乱軍の動きのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのナヤン・カダアンの乱 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS