反乱軍の動き
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「ナヤン・カダアンの乱」の記事における「反乱軍の動き」の解説
1287年(至元24年)2月よりナヤンは反乱のための準備を開始しており、ナヤンが遼東方面で徴兵を行っていると報告を受けたクビライはチェリク・テムルにナヤンの軍備増強を阻むよう命じている。『集史』の伝える所によると、反乱を起こすにあたってナヤンは各地の諸王に使者を派遣して自らに呼応して挙兵するよう要請し、これにオゴデイ・ウルスのカイドゥ、コルゲン・ウルスのエブゲン、コデン・ウルスの王族(イェス・ブカ)が応えた。中でも長年クビライと対立してきたカイドゥはこの機に乗じて大規模な侵攻を行う予定で、『東方見聞録』によるとナヤンの乱に呼応するため10万の騎兵を招集したという。 一方、東道諸王の本領たるヒンガン山脈東麓からは大きく分けて2つの軍団が南下を始め、反乱軍の中核にあたる軍団を首謀者のナヤン自身が、反乱軍の左翼に当たる別動隊をカサル家当主シクドゥルがそれぞれ率いた。ナヤン軍は遼河の北方地域(現在の内蒙古自治区赤峰市一帯)を西に進軍して直接クビライの住まう上都を衝き、シクドゥル軍はまず遼東一帯を制圧した後に遼河を渡って遼西に入り中国本土を目指す予定であったとみられる。結果として、クビライ軍が反乱軍と接触する頃には、カラ・ムレン(シラ・ムレンの支流)以東、スンガリ川(松花江)流域一帯は反乱軍の占領地(史料上では「乃顔之地」と称される)となっていた。 また、カチウン家当主たるシンラカルとコルゲン家当主のエブゲンはモンゴル高原に駐留しカイドゥ軍の侵攻に備える北安王ノムガンの指揮下にあり、反乱開始後にノムガン軍を内部撹乱する手はずで、最終的には西方から進軍してきたカイドゥ軍とノムガン軍を挟み撃ちにしてモンゴル高原を制圧し反乱軍の右翼として南下する予定であった。このようにナヤンが各地の諸王に協力を要請した結果、「ナヤンの乱」はモンゴル帝国西端のジョチ・ウルスとフレグ・ウルスを除く全てのウルスが参戦する大規模な戦乱となった
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