反乱軍の進撃とは? わかりやすく解説

反乱軍の進撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:50 UTC 版)

スペイン内戦」の記事における「反乱軍の進撃」の解説

内戦初期においては人民戦線側はバスクカタルーニャバレンシアマドリードラ・マンチャアンダルシアなど国土大半どちらかというと地中海よりの国土の東半分)を確保したに対して反乱軍側はガリシアレオン反乱軍支援するポルトガル国境接す西側地域)を確保していたに過ぎなかった。 反乱軍当初首都マドリード攻撃激化する政府バレンシア移転、さらにバルセロナ移転)を陥落させようと図るが、人民戦線側も国際旅団などによって部隊増強されており、市民協力塹壕掘られソ連から支援武器到着したこともあり、必死抵抗をみせた。結局マドリードは、内戦最後まで人民戦線側に掌握され続けたこのため内戦長期化様相見せはじめ、フランコ将軍イベリア半島北部港湾地域工業地帯制圧へと戦略切り替えた反乱軍は、当初からフランコ全権握っていたわけではなかったが、フランコドイツ・イタリア支援とりつけていたこと、反乱軍側の指導者であったモラ事故死1937年6月)などが重なって権力集中進みファランヘ党創設者ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベーラ侯爵人民戦線側に捕らえられ処刑)と他政党統合改組させてその党首就任、他政党活動禁止させてファシズム体制固めた反乱軍北部制圧確実に進められ1937年春に北部バスク地方が他の人民戦線地域から分断され孤立しビルバオ6月)、サンタンデール8月)、ヒホン10月)など主要都市陥落して、アストゥリアスからバスクは完全に反乱軍占領された。その間4月26日にはバスク地方ゲルニカが、ドイツから送り込まれ義勇軍航空部隊コンドル軍団Ju52輸送機改造した爆撃型主体とした24機による空襲ゲルニカ爆撃)を受けた。これは前線通じ鉄道・道路など交通の要であった同市を破壊して共和国軍補給妨害することが目的で、巻き添えとなった市民に約300人の死傷者出た共和国側は死傷2500人以上と、被害過大に発表当時爆撃真相不明で、人民戦線軍による焦土作戦と言うフランコ側の主張もかなり信じられていた。これ以前から民間人対す無差別爆撃双方により行われており、バルセロナなどではより多数死傷者発生していたのだが、パブロ・ピカソ絵画ゲルニカ』の題材になったことで、一躍有名になった)。 さらに、1938年に入ると南部ではアンダルシア地方大部分フランコ側に占領され中央部でもエブロ川南岸地域制圧によって反乱軍バレンシア地方北部地中海沿岸にまで達した。これにより、共和国側の勢力カタルーニャマドリードラ・マンチャ南北分断されカタルーニャ孤立化進んだ

※この「反乱軍の進撃」の解説は、「スペイン内戦」の解説の一部です。
「反乱軍の進撃」を含む「スペイン内戦」の記事については、「スペイン内戦」の概要を参照ください。

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