反乱軍の平定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 10:05 UTC 版)
建興3年(225年)3月、参軍の馬謖が、「心を攻めるのが上策、城を攻めるのが下策。心で戦うのが上策、兵で戦うのが下策。」との方針を諸葛亮に示し、諸葛亮は、これを採用した。諸葛亮は、安上県から越嶲郡まで水路を進み、南中へと入った。また、馬忠を派遣して牂柯郡を攻撃させ、李恢を派遣して平夷から建寧郡を攻撃させた。 李恢は、昆明に到達すると、反乱軍に包囲された。当時、李恢の兵は、反乱軍の半分であり、諸葛亮から何らの知らせもなかったため、南中の者に対し、「官軍は兵糧が尽きており、退却しようと考えている。しかし、我々は郷里である南中を叱責(攻撃)しており、たとえ本隊と合流できても、北方へと帰還することはできない。だから、郷里である南中へと戻って、あなたたちと一緒に反乱を起こしたいと考えている。だから正直に話しているのだ。」と伝えた。反乱軍は、これを信じ、李恢に対する包囲を緩和した。このとき、李恢の軍は突如として出撃し、大いに反乱軍を撃破した。李恢は、南のかた槃江へ至り、牂柯郡へと東進した。 馬忠は、且蘭(中国語版)において朱褒を破り、李恢と合流した。 雍闓は、諸葛亮が南進する途上において、すでに高定の部下に殺害されていた。諸葛亮の本隊は、数度戦って勝利し、高定を斬殺した。その後、他の2隊を合流して、孟獲との戦いに備えた。
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