反乱軍の内紛・自滅
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「トク・テムル (ソゲドゥ家)」の記事における「反乱軍の内紛・自滅」の解説
オルホン河の戦いで敗北を喫したトク・テムルらはアルタイ山脈を越えてイルティシュ河流域に逃げ込み、体勢を立て直そうと図った。更にトク・テムルは北方のキルギス地方を制圧しようと出兵したが、新たにクビライに派遣された劉国傑率いる軍勢にイェニセイ河にて敗れ、トク・テムルのアウルク(後方基地)はクビライの軍勢によって掠奪された。 相継ぐ敗戦によって叛乱軍は追い詰められ、トク・テムルは改めてシリギに協力を要請したが、この頃厭戦気分にあったシリギはトク・テムルの要請を拒絶した。これに憤ったトク・テムルは自軍の近くにいたサルバン(モンケの孫で、シリギの甥)に目をつけ、これを新たにカアンに推戴しようとした。知らせを聞いたシリギはメリク・テムルとともに使者を派遣してトク・テムルの意図を尋ねたところ、トク・テムルはこれに「シリギには勇敢さ、胆力が欠けている。我は有能なるサルバンを擁立せん」と答えた。 事を荒立てたくないシリギ、メリク・テムルらはやむなくトク・テムルとサルバンに従い、トク・テムルの命によってジョチ・ウルス及びカイドゥ・ウルスにサルバンが帝位に即いたことを通知した。叛乱軍の主要メンバーの中でヨブクルのみはサルバンの推戴を認めなかったため、トク・テムルは武力で以てこれを討伐しようとしたが、配下の軍勢が裏切ってヨブクル側についてしまったため、完敗を喫してしまった。 トク・テムルは一旦逃れたものの捕らえられ、最終的にヨブクルの要請によって1280年シリギに処刑された。トク・テムルの死について、『元史』は「暴虐であったため、人心を失い、殺されてしまった」と述べている。 この後もシリギ、サルバン、ヨブクルらの間の内訌は更に続き、最終的に至元19年(1282年)初、サルバンがシリギを捕らえて大元ウルスに投降したことで6年にわたる「シリギの乱」は集結した。
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反乱軍の内紛・自滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 15:40 UTC 版)
オルホン河の戦いで敗北を喫したトク・テムルらはアルタイ山脈を越えてイルティシュ河流域に逃げ込み、体勢を立て直そうと図った。更にトク・テムルは北方のキルギス地方を制圧しようと出兵したが、新たにクビライに派遣された劉国傑率いる軍勢にイェニセイ河にて敗れ、トク・テムルのアウルク(後方基地)はクビライの軍勢によって掠奪された。 相継ぐ敗戦によって叛乱軍は追い詰められ、トク・テムルは改めてシリギに協力を要請したが、この頃厭戦気分にあったシリギはトク・テムルの要請を拒絶した。これに憤ったトク・テムルは自軍の近くにいたサルバン(モンケの孫で、シリギの甥)に目をつけ、これを新たにカアンに推戴しようとした。知らせを聞いたシリギはメリク・テムルとともに使者を派遣してトク・テムルの意図を尋ねたところ、トク・テムルはこれに「シリギには勇敢さ、胆力が欠けている。我は有能なるサルバンを擁立せん」と答えた。 事を荒立てたくないシリギ、メリク・テムルらはやむなくトク・テムルとサルバンに従い、トク・テムルの命によってジョチ・ウルス及びカイドゥ・ウルスにサルバンが帝位に即いたことを通知した。叛乱軍の主要メンバーの中でヨブクルのみはサルバンの推戴を認めなかったため、トク・テムルは武力で以てこれを討伐しようとしたが、配下の軍勢が裏切ってヨブクル側についてしまったため、完敗を喫してしまった。 トク・テムルは一旦逃れたものの捕らえられ、最終的にヨブクルの要請によってシリギは至元17年(1280年)に処刑された。トク・テムルの死について、『元史』は「暴虐であったため、人心を失い、殺されてしまった」と述べている。 この後もシリギ、サルバン、ヨブクルらの間の内訌は更に続き、最終的に至元19年(1282年)初頭、サルバンがシリギを捕らえて大元ウルスに投降したことで6年にわたる「シリギの乱」は終結した。
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