反乱者への対処
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 19:47 UTC 版)
「新アッシリア帝国の軍事史」の記事における「反乱者への対処」の解説
アッシリア帝国内で反乱が起きた時はいつでも、アッシリアの王たちは必ず残酷に鎮圧し、反乱者を厳罰に処した(国外追放か残酷な処罰かの二者択一だった)。アッシュルバニパル2世は、二度と反乱を起こす気にならないよう、反乱すれば必ず残酷に鎮圧することをはっきりと示した。アッシュルバニパルは、ある時、反乱に対して出陣して鎮圧し、反逆者たちの皮を剥ぎ、串刺しにし、首をはね、生きたままに焼いたことを記録している。 余は3000人の兵を剣で倒した。余は捕虜の命を奪い、彼らの所有物、雄牛を奪った。余は多くの捕虜を焼いた。余は多くの兵を生け捕りにして、腕や手を切り、鼻や耳、手足をそいだ。多くの兵の目をえぐり取った。生きた者の山を築き、首の山も築いた。その首を街の周りの木に吊した。まだ10代の少年や少女を焼いた。余はその街を倒壊させ、壊し、滅ぼした。 —アッシュルバニパル アッシュルバニパルの残酷な処置は、反乱の鎮圧に効果があった。シリアに遠征した際には、多くの兵士をメソポタミアから移動させなければならなかったが、反乱により補給線が絶たれることを恐れる必要はなくなった。また、シリア北部の街々において行われた残虐行為の結果、その他の多くの小さな街が、ただちにアッシリア軍へと引き渡されている。このため、彼らは地中海に沿って南に行軍することができた。 アッシリア人は彼らの王を、アッシュル神の承認により統治しているものと考えていた。アッシュル神の最も謙虚な下僕に対する反乱は、アッシュル神そのものに対する反乱、そして神による破壊をもたらすのみであることを意味する。それゆえに、そのような残虐行為により神の栄光を讃えた。 他にも、レイプ、手足の切断による殺害、征服した都市の城壁へ首や腕、手、唇をさらす、杭の上に頭蓋骨や鼻をさらすなどの残虐行為が行われた。また、死体を積み重ねたり、切り刻んで犬に与えたりさえしたこともある。ある時には、盲目の人々が歩き回ってアッシリア人のことを語り、土地の人々の士気をくじいて恐れさせた。
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