反乱者の捜索
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 22:20 UTC 版)
「パンドラ (帆走フリゲート)」の記事における「反乱者の捜索」の解説
1790年3月15日、軍艦「バウンティ」の反乱のニュースがイギリスに伝わると、海軍本部は対応を熟慮した結果、「パンドラ」を南太平洋へ派遣し、奪われた「バウンティ」を取り戻して、かつ反逆者を捕らえ、裁判のためにイングランドに連行するよう命じた。フリゲート「パンドラ」はエドワード・エドワーズ艦長以下134名の乗組員を乗せ、1790年11月7日にポーツマスを出航した。 エドワーズは知らなかったが、反逆者のうちの16人はすでに、オーストラル諸島(トゥブアイ諸島)の1つ、ツブアイ島でフレッチャー・クリスチャンをリーダーとする植民地(フォート・セント・ジョージ)を樹立する試みに失敗した後、タヒチに戻ることにし、今もそこにいた。彼らは言わば『波止場の浮浪者』としてタヒチに住んでおり、その多くが地元の女性との間に子供をもうけていた。フレッチャー・クリスチャンの率いる反乱者のグループと、それに従うことを選んだポリネシア人のグループは、彼らとは別にピトケアン島に渡り、そこで生活していた。 「パンドラ」はホーン岬を経由して1791年3月23日にタヒチに到着した。「バウンティ」の乗組員だったうちの5人は「パンドラ」の到着後24時間以内に自発的に帰順した。残りの9人は武装した上陸部隊の数週間にわたる山狩りののち拘束された。これら14人は「パンドラ」の艦尾甲板に作られた間に合わせの檻に収容された。彼らはそれを「パンドラの箱」と呼んだ。エドワーズは反乱者のうち2人は「パンドラ」到着前に死んでいたと聞かされた。 1791年5月8日にタヒチを出発した「パンドラ」は、その後3ヶ月を費やして南西太平洋の島々を訪れて「バウンティ」の痕跡や反乱者を捜索したが、何も得られなかった。「パンドラ」はこの航海の間に、トケラウ(Tokelau)、サモア、トンガおよびロトゥマ(Rotumah)を訪れ、14人の乗組員と2艘のボートを失った。彼らはまたVanikoro島を通過し、エドワーズはそれをピット島と名づけた。
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