反乱軍と国王軍の攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/15 15:29 UTC 版)
「モンマスの反乱」の記事における「反乱軍と国王軍の攻防」の解説
モンマスの計画は、西部で支持者を集めながら北上して勢力を広げる方針だった。スコットランド貴族のアーガイル伯アーチボルド・キャンベルはモンマスの計画に加わり先にオランダから出航、5月6日にスコットランド北のオークニー諸島に上陸して南下していった。グレイ男爵フォード・グレイとスコットランドの聖職者ロバート・ファーガソンも反乱に加担、グレイは反乱軍の騎兵隊長となり、ファーガソンはモンマスの国王宣言を起草して反乱の大義名分を掲げた。 反乱軍は北上してサマセットへ向かい、アルベマール公クリストファー・マンクは迎撃に向かったが15日に戦わず撤退、モンマスは無傷で18日にサマセットのトーントンに到着して国王と宣言、6000人の農民が合流していった。しかし、スコットランドのアーガイルは味方に逃げられ戦力を失い、モンマスの国王宣言と同じ日に政府側に捕えられたためスコットランドからの援軍は空中分解してしまった。 北上してからはチャーチルが追撃して来たため進軍が遅れたが、モンマスは北へ進軍して21日にブリッジウォーターに、翌22日にグラストンベリーに、23日にはシェプトン・マレットを通過してブリストルへ向かい、24日にブリストル近郊のケインシャム付近で野営してブリストルに迫った。しかし、ブリストルは既にボーフォート公ヘンリー・サマセットとフェヴァシャム率いる国王軍に占拠されていたため反乱軍は南へ退去、バースも国王軍に制圧されたためウィルトシャーへ南進、27日にノートン・セントフィリップまで来た所でモンマスの異母弟のグラフトン公ヘンリー・フィッツロイの攻撃を受けたため翌28日に更に南のフロームまで後退した。 長引くにつれ状況は反乱軍不利に傾き、イングランド海軍はモンマスの船を捕獲して退路を遮断、陸軍のフェヴァシャムはチャーチルと合流してモンマスに接近、スコットランドの反乱失敗がイングランドに知らされると反乱軍の士気が低下して追い詰められていった。モンマスは7月3日にブリッジウォーターへ引き返し、国王軍が5日に南東のセッジムーアに対陣すると翌6日に夜襲を敢行した(セッジムーアの戦い)。 この戦いは夜襲がうまくいかなかったことと、チャーチルの陣頭指揮で国王軍が夜襲から早く体勢を立て直したこと、訓練されていない農民兵と国王軍とでは戦力に差があったため、勝負は国王軍の勝利に終わりモンマスは戦場から逃走した。反乱軍は4000人に減っていたが、敗北と国王軍の追撃で討たれたり降伏する兵が続出して四散、国王軍は戦後モンマスと残党の捜索にあたった。任務を受けた国王軍の部将リチャード・ラムリーはグレイを翌7日未明に捕らえ、モンマスも8日に排水溝に隠れていた所を逮捕された。 ロンドンに出頭したモンマスはジェームズ2世に必死に助命嘆願したが叶わず、6月13日に私権剥奪法が議会で可決されていたため裁判もなく死刑と決まり、15日にロンドン塔で断頭刑にされジャック・ケッチにより処刑された。刑執行の直前、モンマスは「手際よく斬ってくれ」という意味でジャックにチップを手渡したが、受け取ったジャックはかえって緊張してしまい、斬首の斧を振り下ろす手元が狂って何度も斬り損ねたという。アーガイルは6月30日にエディンバラで処刑されていて、ファーガソンはオランダへ逃亡、首謀者がいなくなりモンマスの反乱は終結した。
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