グラストンベリー 【Glastonbury】
グラストンベリー
グラストンベリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 21:26 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動グラストンベリー Glastonbury ![]() |
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座標 : 北緯51度09分 西経02度43分 / 北緯51.150度 西経2.717度 | |
行政 | |
国 | ![]() |
連合王国 | ![]() |
リージョン | サウス・ウェスト・イングランド |
カウンティ | サマセット |
非都市ディストリクト | メンディップ |
タウン | グラストンベリー |
人口 | |
人口 | (2014年1月現在) |
タウン域 | 8,932人 |
その他 | |
等時帯 | 西ヨーロッパ時間 (UTC+0) |
夏時間 | 西ヨーロッパ夏時間 (UTC+1) |
郵便番号 | BA6 |
市外局番 | 01458 |
公式ウェブサイト : http://www.glastonbury.gov.uk |
グラストンベリー(Glastonbury)は、イギリス・サマセットにある小さな町。ブリストルの南37kmの位置にある。行政上は非都市ディストリクトのメンディップ内にあり、2011年の国勢調査での人口は8,932人[1]。
町と伝説の関わり
町はアリマタヤのヨセフや聖杯、アーサー王伝説で知られている。『アリマタヤのヨセフの聖杯物語』の伝説が、13世紀にフランスの詩人ロベール・ド・ボロンにより紹介された。大元の伝承は4世紀を発祥とし、13世紀に著された伝説によれば、フィリポがヨセフを宣教師として派遣したとされ、ここグラストンベリーにブリテン島で最初の教会を設立したというものである。とはいえあくまでも俗説に過ぎず「歴史に基づくものではない」とされている[2]。
アーサー王伝説にはグラストンベリー修道院跡が深く関わっており、イングランド王ヘンリー2世はアーサー王伝説を自らの権威付けに利用、この意向に沿ってヘンリー2世に仕えていたウァースは『ブリュ物語』を作り出し、ヘンリー2世をアーサー王の後継者と位置付ける狙いと、物語を通じてブリトン人とノルマン人の合流を企図した。その一環としてグラストンベリー修道院はアーサー王終焉の地・アヴァロンに擬せられ、ヘンリー2世は1184年の火災で焼け落ちた修道院に再建資金を援助したり、アーサー王埋葬の噂を元に修道院を発掘させたりしていた。1189年のヘンリー2世の死後に修道士たちが修道院の墓地にアーサー王と王妃グィネヴィアの墓を発見、宝剣エクスカリバーもアーサー王の墓から出たという噂が広まり、グラストンベリー修道院はアーサー王ゆかりの巡礼地として定着していった[3]。
出身人物
- ヘンリー・フィールディング - 劇作家
- ヘンリー・スコット・ストークス - ジャーナリスト
姉妹都市
脚注
- ^ “Glastonbury Parish”. Neighbourhood Statistics. Office for National Statistics. 2014年1月1日閲覧。
- ^ アットウォーター、P422。
- ^ 石井、P233 - P234、ペルヌー、P142 - P143、ベルトゥロ、P44 - P48。
参考文献
- 石井美樹子『王妃エレアノール ふたつの国の王妃となった女』平凡社、1988年。
- レジーヌ・ペルヌー著、福本秀子訳『王妃アリエノール・ダキテーヌ』パピルス、1996年。
- アンヌ・ベルトゥロ著、村上伸子訳、松村剛監修『アーサー王伝説』創元社(「知の再発見」双書)、1997年。
- ドナルド・アットウォーター、キャサリン・レイチェル・ジョン著、山岡健訳『聖人事典』三交社、1998年。
外部リンク
グラストンベリー
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「ラトランド・ボートン」の記事における「グラストンベリー」の解説
1911年までにボートンはバーミンガム音楽院の職を辞し、グラストンベリーに映ってウォルシェ、バックレーと共に国内で初めての夏の定期音楽集会を立ち上げることに集中し始めた。最初に公演が行われた作品は予定していたアーサー王シリーズではなかったものの、ボートンの合唱劇の新作である「不滅の時間」であった。この作品は1912年に作曲され、初演に際しては国中に訴えかけて基金を創設すべくバントック、トーマス・ビーチャム、ジョン・ゴールズワージー、ユージン・グーセンス、グスターヴ・ホルスト、エセル・スマイス、ショーら他によってこれ以上ない後援が行われた。エルガーは基金の礎石を置くことを約束し、ビーチャムは私有のロンドン・フィルハーモニー管弦楽団を貸し出した。しかしながら、初年度の開始月となっていた1914年8月になると第1次世界大戦が勃発し、全ての計画は延期を余儀なくされた。ボートンはこのような中でも計画を推し進めることを決断し、ビーチャムのオーケストラの代わりにグランドピアノを用いて音楽祭は開催された。劇場の代わりとして使用された地元の集会場は、その後音楽祭が終わりを迎える1926年まで使用されることになり、ボートンはそこで350以上の舞台作品を上演し、100の室内楽演奏会、多数の展覧会や講演会、リサイタルが開催された。これはイングランドではかつて例のない規模であった。1922年にはボートンの音楽祭の演奏家たちがツアーを行い、ブリストルのフォーク・フェスティバル・ハウス(現存しない)やボーンマスで好評を得た。 ボートンの作品中、最も成功し高い評価を得たのはオペラ「不滅の時間」であった。この作品はウィリアム・シャープのケルト神話に基づく戯曲を下敷きとするものである。グラストンベリーで成功を収めバーミンガムでも好評を得ると、新しいバーミンガム・レパートリー・シアター(英語版)の支配人であったバリー・ジャクソン(英語版)はロンドン公演を決定した。グラストンベリー音楽祭のメンバーを率いて行われた公演は、600回以上の上演となり新記録を打ち立てた。1922年にリージェント・シアター(Regent Theatre)に到着すると200回以上の初回公演が約束されており、さらに1923年に160回の追加公演も行われた。さらに1932年には復活公演も行われ、大きな成功を収めた。王室の人物らも含め、観客は複数回にわたって訪れては特にEtain役でプロとして舞台デビューを果たした若きグェン・フランコン=デイヴィス(英語版)の歌と演技を鑑賞した。 「不滅の時間」や「ベスレヘム」に加え、1924年のトーマス・ハーディの戯曲に基づく「The Queen of Cornwall」と1922年のギリシアの詩人エウリピデスの戯曲に基づく「Alkestis」も非常に高い評価を受け、後者は1924年にロイヤル・オペラ・ハウスでも上演された。これらの後期作品はアドルフ・ボルスドルフ(Adolph Borsdorf)が組織した最初のボートン・トラストがロンドンやサマセットの通りでの興行を後援するようになった1960年代半ば以降、公に聴かれることはなくなっている。 ボートンは1926年のゼネラル・ストライキと鉱山労働者の職場締め出しに同情を寄せていた。彼はロンドン、ウェストミンスターのチャーチ・ハウス において自らの人気の高い降誕オペラ「ベスレヘム」を、イエスを鉱山労働者の小屋で生まれたことにし、ヘロデ大王を兵士と警官を脇に従えてシルクハットを被った人物として描いて上演すべきだと主張した。この出来事によってグラストンベリーでボートンを支えていた人々が非常に当惑して事業から身を引き、また音楽祭の演奏家たちは離散していくこととなり、音楽祭に翳りが見えるようになった。
※この「グラストンベリー」の解説は、「ラトランド・ボートン」の解説の一部です。
「グラストンベリー」を含む「ラトランド・ボートン」の記事については、「ラトランド・ボートン」の概要を参照ください。
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