グラストンベリー説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 08:18 UTC 版)
リチャード獅子心王の治世の1191年、グラストンベリー修道院の墓地でアーサー王の古墓が発見されたとの発表がされた。ギラルドゥス・カンブレンシス(英語版)(ウェールズのジェラルド)の同時代の著述(1193年頃)によれば、当時のグラストンベリー修道院長(英語版)をつとめるヘンリー・ド・サリー(英語版)の指導のもとに墓の探索が行われ、5メートルの深さから楢の木でできた巨大な棺のようなものと二体の骸骨を発見。また、そこには通常の習慣どおりの石蓋ではなく敷石がおかれ、石の裏側に貼りつけるようになって密接した鉛製の十字架には: 「ここにアヴァロンの島に有名なるアーサー王横たわる。第二の妻ウェネヴェレイアとともに」(ラテン語: Hic jacet sepultus inclitus rex Arthurus cum Weneuereia vxore sua secunda in insula Auallonia) と刻印されていた。王墓の探索に着手したそもそもの理由については、リチャードの父ヘンリー2世がまだ存命の頃、年老いたブリトン人の歌人から、墓がそのくらいの深さから発見されるはずだ、という暗示を受けたからだとギラルドゥスは釈明している。 しかし、ある僧侶が、とりわけその場所にこだわって埋葬されることを切に望み、その遺志の場所を掘り起す作業に当たっているとき、単なる偶然で発見されたものだという、やや後年のラドルフス(ラルフ・オヴ・コッゲスホール(英語版))の記述もある。ギラルドゥスもラドルフスも、発見された場所は、2基のピラミッド状建造物の間としている。 ウィリアム・オヴ・マームズベリは、アーサーの墓には触れないが、修道院に建っていた高さの異なるピラミッドには詳述しており、それらには人物の立像があり、"Her Sexi"や"Bliserh"等々の刻名がされていたという アーサー王と王妃の遺骸は、1191年当時、立派な大理石の石棺に移していったん安置されているが、1278年にエドワード1世夫妻臨席の元、検分が行われ、グラストンベリー修道院の主祭壇の前の地下に、大掛かりな儀式とともに再埋葬された。宗教改革でこの修道院が破壊され廃墟と化す前は、主祭壇下の埋葬地は巡礼たちの目的地になっていたという。 しかし、グラストンベリーの伝説は有名ではあるが眉唾物だと受けとめられていることが多い。中でも、棺にあった刻印は、6世紀の出来事とされるアーサー王伝説より時代が後にずれていると見られており、棺を発見した修道院による秘められた動機があるものと考えられる。これは当時のグラストンベリー修道院長が、他の修道院と競い自分の修道院の格を上げるため、様々な伝説を利用したと見られている。その結果、アーサー、聖杯、ヨセフが一つの物語の中で結び付けられることとなった。 早ければ11世紀初頭には、アーサー王がグラストンベリー近郊に突き出た円錐形の丘、「グラストンベリー・トー」に埋葬されたという伝説が形成された[要出典]。周辺のサマセット低地に広がっていた湿地帯が乾燥するまでの頃、一面の沼地の中で高く丸く隆起していたグラストンベリー・トーの巨体はまるで島のように見えたことであろう。
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