反乱蜂起の拡大
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「ムハンマド・アフマド・アル=マフディー」の記事における「反乱蜂起の拡大」の解説
ウラマーの助言を受けて、エジプトの治安当局はムハンマド・アフマドを偽の教義を広めた罪で逮捕することにし、遠征軍を組織した。ムハンマド・アフマドはこの遠征に対してジハードを宣言することによって答えた。このことは当時のイスラーム法学者から非常に厳しく批判された。 我は正しく導かれし者、神の預言者の代理人であるぞ。不信仰者のトルコ人への納税をやめよ。トルコ人を見かけた者は誰でもその命をとってもよい、なぜならやつらは不信仰者(カーフィル)だからだ。 —ムハンマド・アフマド、 他の宗教改革者と違って、ムハンマド・アフマドはイジュティハードの実践を奨励することはなかった。その代わりに「神から直接暗示を受けた」として、自ら布告した内容を伝統的な法学的解釈に置き換えた。といってもそれは預言者ムハンマドを封印してその地位を奪うものではなかった。なぜならば預言者は、何らかの方法で、ムハンマド・アフマドに与えられる啓示を媒介したからであった。 啓示は神の使徒から下る。彼は我を導くため、我のそばにおれと神から遣わされた天使なのだ。だからこの啓示から知りうることは神が使徒を通じて私に霊感を与えたものなのだ。 —ムハンマド・アフマド、 アル=マフディーのダアワ(付き従った人々、信奉者)は、アル=アンサール(援助者の意)を自称した。彼らは西洋人には「デルヴィーシュ」(乞食坊主、修行者の意)と呼ばれた。アル=マフディーとそのダアワは、クルドゥファーンに向けて長い道のりを行進した。そこでアル=マフディーは大規模な教宣を行い運動への参加を呼びかけ、多数のアンサールを得た。特に、バッガーラ人たちの心をつかむことに成功し、リゼイガト部族のシャイフ・マディーッボ・イブン・アリーや、ター・アーイシャ部族のアブダッラーヒ・イブン・ムハンマドといった部族長の支持を取り付けた。ベジャ人のハデンドゥア(Hadendoa, 遊牧民)もダアワに参加した。東部スーダンのハデンドゥア族長、ウスマーン・ディグナは1883年にアンサールに馳せ参じた。 マフディー運動は1881年に北部スーダンではじまり、西部スーダンまで押し返された。ところがそこでヌエル、シッルク、アヌアックの各部族の支援を受け、南部スーダンからはバフル=ル=ガザル部族の支援も受けた。ここに至り、マフディー運動は局地的な運動ではなく「民族主義革命」(a national revolution)の様相を呈するようになった。 他方で、東部スーダンと北部スーダンで信者を拡げていたスーフィーのタリーカの1つ、ハティム教団(Khatmiyya、ハティミーヤ)はアル=マフディーの主張を異端であると斥けた。マフディー軍はハティム教徒を攻撃し、カッサラーにあるサイイド・アル=ハサンの霊廟を荒らした。アル=ハサンはハティム教団で崇拝されていたイマーム、ムハンマド・ウスマーン・アル=ミールガーニー・アル=ハティム(Mohammed Uthman al-Mirghani al-Khatim)の孫である。ハティム教団の指導者は暗殺を恐れてエジプトに亡命せざるを得なくなった。 1883年の後半ごろ、アンサールたちはアル=ウバイド(エル=オベイド)からさほど遠くないところでエジプト軍4,000人と相対し、圧勝した。彼らの武装は槍と剣だけだったが、この戦闘における勝利でエジプト軍のライフル銃やその他の火器を鹵獲した。マフディー軍は引き続きアル=ウバイドの町を2か月間にわたって包囲し、兵糧攻めにした。町が降伏したのちは、ここにアンサールの本部が置かれ、以後、10年間近く、アル=マフディーヤの本拠地となった。 今や40,000人の軍勢にふくれあがったアンサールは、イギリス人の将校ウィリアム・ヒックスに率いられたエジプト軍8,000人を、シェイカンという場所で打ち破った(エル=オベイドの戦い)。西洋人の視点に立つと、ヒックスの敗戦はダールフールの運命を閉ざしたも同然だった。南部のジャバル=カーディル山もアンサールたちの手中に落ち、スーダンの西半分がアル=マフディーヤの支配下に入った。ダールフールはルドルフ・カール・フォン・スラーティンによりのちに取り戻される。 アンサールたちの勝利は、ウスマーン・ディグナ率いる遊牧民ハデンドゥアに勇気を与えた。彼らは紅海に面したスワーキンの港を支配していた、ヴァレンティン・ベイカー大佐率いる小規模なエジプト軍を追い出した。イギリスはスワーキンを取り返すために4,000人のイギリス兵を派遣せざるを得なくなった。遠征軍はジェラルド・グレアム少将が統率の任につき、2月29日にアッ=ティーブにてディグナの軍を破ったが、2週間後にターマーイー(ターマニーヤ)において手痛い反撃を受けた。グレアムは最終的に任務から降りた。
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