藤原仲麻呂の乱とは? わかりやすく解説

藤原仲麻呂の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/26 02:04 UTC 版)

藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん)は、奈良時代764年)に起きた叛乱。恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)ともいう。孝謙太上天皇道鏡と対立した太師(太政大臣藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件である。


  1. ^ 『万葉集』巻二十、四二九四番歌左注より、天平勝宝5年5月段階で押勝は自宅において政務の決裁を行う特権を認められていたことが分かり、この段階で太政官印は押勝の管理下にあったと思われる(木本、2021年、P57.)。
  2. ^ のちに判明した記録による。『続日本紀』天平宝字八年十月壬申条。岸俊男『藤原仲麻呂』吉川弘文館、391頁
  3. ^ 木本、2021年、P56-58.
  4. ^ 『続日本紀』宝亀六年五月己酉条甍伝。朝日日本歴史人物事典 kotobank
  5. ^ 天平神護元年八月庚申条。岸俊男『藤原仲麻呂』吉川弘文館、391頁
  6. ^ 木本好信は橘奈良麻呂の乱について記した『続日本紀』天平宝字元年七月庚戌条「次傾皇太后宮而取鈴璽。即召右大臣、将使号令。然後廃帝。」に着目して、この乱の時には鈴印は孝謙天皇(当時)ではなく光明皇太后が保持していたと指摘し、藤原仲麻呂の乱の時に中宮院に鈴印があったのは皇太后の崩御後に淳仁天皇に直接引き渡されたからだと評価した。その上で、この事件は孝謙上皇が鈴印の正当な所持者である淳仁天皇から奪った事件であるため、本来であれば「(上皇の命令を受けた)山村王が奪い、(仲麻呂の命令を受けた)藤原訓儒麻呂が収めた」とされるべきところを、『続日本紀』天平宝字八年九月乙巳(9月11日)条は上皇側の詔勅を引用して「山村王が収め、藤原訓儒麻呂が奪った」と記していると指摘している(木本、2021年、P52-56.)。
  7. ^ 『続日本紀』天平宝字八年九月乙巳条「押勝又遣中衛将監矢田部老。被甲騎馬。且劫詔使。授刀紀船守亦射殺之。」[1] この部分の解釈には異説があり、紀船守が谷田部老に射殺されたとする説もあるが、紀船守は坂上苅田麻呂らの功臣と共に即日行賞されて従七位下から従五位下に飛躍的に昇進し、その後も授刀衛の後身である近衛府において、宝亀6年(775年)に員外少将、宝亀9年に少将、天応元年(781年)に員外中将、延暦2年(783年)には中将、更に延暦4年には遂に大将、と順調に出世を続けており、この乱で戦死したとは考えられない。なお鈴印の行方については『続日本紀』等の史料には明記されていないが、状況的に孝謙上皇側が最終的に確保したと思われる。
  8. ^ ただし、木本好信の「私の仲麻呂像 -反逆者像の払拭と政治観-」のように、正統な政府が淳仁天皇-仲麻呂側である以上、孝謙上皇が天皇と仲麻呂を駆逐しようとしたクーデターと解する論者もいる。
  9. ^ 「中臣氏系図」(『群書類従』巻第62所収)


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