藤原仲麻呂の乱を通じた復権と右大臣就任とは? わかりやすく解説

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藤原仲麻呂の乱を通じた復権と右大臣就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 09:54 UTC 版)

吉備真備」の記事における「藤原仲麻呂の乱を通じた復権と右大臣就任」の解説

天平宝字8年764年正月70歳となった真備は、致仕の上表文大宰府提出する。しかし、上表文天皇奏上される前に東大寺長官に任ぜられ帰京する。また同年にはかつて真備が唐から持ち帰った大衍暦について、30年近く長き亘って準備の末、儀鳳暦替えて適用開始されている。 同年9月藤原仲麻呂の乱発生すると、緊急で従三位参議叙任され孝謙上皇側に参画する真備中衛大将として追討軍を指揮し、兵を分けて麻呂退路を断つなど優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げる。翌天平神護元年765年)には乱の功労により勲二等授けられた。天平神護2年766年称徳天皇法王弓削道鏡の下で正月中納言へ、同年3月藤原真楯薨去に伴い大納言へ、さらに同年10月には従二位右大臣昇進して左大臣藤原永手並んで太政官領導した。これは地方豪族出身者としては破格出世であり、学者から立身し大臣にまで至ったのも、近世以前では吉備真備菅原道真二人のみである。またこの頃には、大和長岡とともに養老律令修正追加目的とした刪定律令24条を編纂し神護景雲3年769年制定させている。 神護景雲4年770年称徳天皇が崩じた際には、娘(または妹)の吉備由利通じて天皇意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子実現した。『水鏡』など後世史書物語では、後継天皇候補として文室浄三次いで文室大市推した敗れ、「長生の弊、却りて此の恥に合ふ」と嘆息したという。ただし、この皇嗣をめぐる話は『続日本紀』には認められず、この際藤原百川暗躍含めて後世誤伝あるいは作り話とする説が強い。

※この「藤原仲麻呂の乱を通じた復権と右大臣就任」の解説は、「吉備真備」の解説の一部です。
「藤原仲麻呂の乱を通じた復権と右大臣就任」を含む「吉備真備」の記事については、「吉備真備」の概要を参照ください。

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