藤原伊周と准大臣の起こり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 17:23 UTC 版)
准大臣の初例は藤原伊周である。伊周は藤原道長との政争に敗れたあと、長徳2年(996年)4月に内大臣を罷免されて九州大宰権帥に左遷されたが、翌年4月には大赦により帰洛した。その後、本位の正三位に復されたのをはじめとして徐々に復権の措置がとられたが、大臣への復帰には障害があった。左大臣には道長、右大臣には藤原顕光、内大臣には藤原公季が在任しており、伊周を大臣に復すにはこのうちの誰かを辞めさせなければならないが、そうはいかなかった。太政大臣は空席だったものの、左大臣道長の上席に伊周を据えるのは論外だった。また大臣以外の官職に任じたのでは内大臣から降格された状態が維持されることになり、これでは復権にはならなかった。 結局、まず寛弘2年(1005年)2月25日に伊周は参内の際には「大臣の下、大納言の上」に着席することとされ、ついで寛弘5年(1008年)1月16日には大臣に准じて封戸1000戸を与えられることで解決がはかられた。 伊周は自らの待遇を儀同三司(ぎどうさんし)と表現した。儀同三司とは、中国の後漢の時代、高級武官や皇帝の外戚などに、三司すなわち三公(太尉・司徒・司空)と等しい待遇を与え「儀、三司に同じくす」と呼んだことに由来する。日本では三公と言えば大臣(太政大臣・左大臣・右大臣、あるいは左大臣・右大臣・内大臣)を指すことから「大臣と同じ待遇」という意味でこのように自称したものである。 しかし伊周が用いた儀同三司はあくまでも自称であり、いわば雅号のようなものだった。同時代の貴族たちは彼を前官に即してもっぱら「帥」「前帥」などと呼んでおり、正史に準ずる史書『日本紀略』にも「前大宰権帥」と書かれている。しかし文芸の世界ではこの儀同三司が好んで用いられた。伊周の母・高階貴子は当時の宮廷歌人で、その作歌「忘れじの行く末までは難ければ 今日を限りの命ともがな」は『小倉百人一首』にも採られているが、彼女のことは「儀同三司母」と表現されている。一方、百人一首にはもうひとつ公卿の母が詠んだ歌が採られているが、こちらは「右大将道綱母」と表現されている。これと同じように高階貴子が「儀同三司伊周母」とならなかったのは、百人一首が成立した14世紀前半までの時点で「儀同三司」と呼ばれた人物はこの藤原伊周ただ一人だったためにほかならない。
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