藤原仲麻呂政権下での左遷と再度の入唐
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「吉備真備」の記事における「藤原仲麻呂政権下での左遷と再度の入唐」の解説
天平勝宝元年(749年)阿倍内親王の即位(孝謙天皇)に伴って従四位上に叙せられる。しかし、孝謙朝では大納言兼紫微令に就任した藤原仲麻呂が権勢を強め、左大臣・橘諸兄を圧倒する。この状況の中で、真備も天平勝宝2年(750年)に格下の地方官である筑前守次いで肥前守に左遷された。筑前国はかつて藤原広嗣が反乱の際に最初に軍営を造った場所で、肥前国は広嗣が捕らえられ誅殺された国であったことから、真備のこれら国守への任官は広嗣の乱の残党による再度の反乱を防止するために行われたとする見方がある。 一方、同年には第12次遣唐使が派遣されることになり、大使に藤原清河、副使に大伴古麻呂が任命される。ところが、翌天平勝宝3年(751年)になると真備が追加の副使に任ぜられるが、副使が2名となるだけでなく、大使・藤原清河(従四位下)より副使・吉備真備(従四位上)の方が位階が上という異例の人事であった。結局、天平勝宝4年(752年)出航直前に藤原清河を正四位下(二階)、大伴古麻呂を従四位上(四階)と大幅に昇進させて、体裁が整えられている。同年真備らは再び危険な航海を経て入唐する。唐では高官に昇っていた阿倍仲麻呂の尽力もあり、仲麻呂を案内者として宮殿の府庫の一切の見学が許されたほか、帰国に当たっては鴻臚卿・蒋挑捥が揚州まで同行するなど、破格の厚遇を得られたという。翌天平勝宝5年(753年)6月頃に遣唐使節一行は帰国の途に就き、11月に蘇州から日本へ向けて出航、真備は第三船に乗船すると、鑑真と同じく屋久島へ漂着し、さらに紀伊国牟漏埼(現在の和歌山県東牟婁郡太地町)を経由して、何とか無事に帰朝した。なお、この帰途では大使・藤原清河や阿倍仲麻呂らの船は帰国に失敗し、唐に戻されている。 帰朝しても真備は中央政界での活躍は許されず、天平勝宝6年(754年)正四位下・大宰大弐に叙任されてまたもや九州地方に下向する。この頃、日本と対等の立場を求める新羅との緊張関係が増していたことから、近い将来の新羅との交戦の可能性も予見し、その防備のために真備を大宰府に赴任させたとの見方がある。10年近くに亘る大宰府赴任中、大宰帥は石川年足・藤原真楯・阿倍沙弥麻呂・船王・藤原真先の5人だったが、船王以外はいずれも参議兼官であったことから、真備が大宰府の実質的な責任者であったとみられる。 まず、天平勝宝8歳(756年)新羅に対する防衛のため筑前国に怡土城を築き、天平宝字2年(758年)唐の安史の乱に備えるよう勅を受けている。天平宝字3年(759年)以下の通り不安点四ヶ条を大宰府より言上する。この進言は、内容を鑑みて軍事に精通し怡土城を築いた真備によって原案が作成されたと考えられる。 警固式では、博多大津・壱岐・対馬など要害の地には100隻以上の船を不測の事態に備えることを定めているが、現在使用できる船がなく、万一の事態が発生しても間に合わない。 大宰府は三方を海に面しており諸蕃国と向き合っている。一方で東国からの防人の派遣を廃止して以降、国境の守護は日毎に荒廃している。万一の事変が発生しても、我が国の威力を示すことができない。 管内の防人は専ら築城を止め、武芸の修練に努め戦場での陣立てを習うことになっている。しかし、大宰大弐・吉備真備は築城のために防人に対して50日間武芸を教習し、10日間築城のための労役を課すことを論じており、大宰府の中で意見が割れている。 天平4年(732年)に勅があり、西海道諸国の兵士は調庸を全て免除し、同じく白丁は調を免除して庸のみ輸納させることとした。当時はこれにより民は休まり兵は強まった。現在は管内の百姓は窮乏の極みにある者が多く、再び租税や労役の減免がなければ自立することができない。 これに対して、淳仁天皇より以下の勅があった。 公用の食糧を支給し、雑徭によって造船を行う。 東国からの防人派遣は衆議により許されない。 管内の防人に10日の労役を課すことは、真備の建言を認める。 租税や労役の減免については、行政が理に適って行われれば人民は自然に富強になるはずで、官人はその職務をよく務め、朝廷の委任に沿うようにせよ。 天平宝字3年(759年)6月に新羅を討つために大宰府にて行軍式(軍事行動に関する規定)が作成されると、8月に新羅征討を行う方針が決まり、同年9月には船500艘を造ることが決まるなど遠征の準備が進められるが、これに関して、以下の活動記録がある。なお、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わっている。 天平宝字4年(760年)平城京から派遣された授刀舍人・春日部三関と中衛舍人・土師関成らに対して、諸葛亮の「八陳」と孫子の「九地」、および軍営の作り方を教授した。 天平宝字5年(761年)新羅征討の軍備を整えるために節度使が設置されると、西海道節度使に任ぜられる(副使は多治比土作と佐伯美濃麻呂)。 大宰府赴任中の真備は対新羅の拠点となる築城を行い、四ヶ条の言上により新羅征討計画に対して重要な示唆を与え、行軍式を作成するなど、唐で学んだ兵学を実践して仲麻呂政権を通じて計画された新羅征討策の一翼を担った。
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