藤原仲麻呂政権下での左遷と再度の入唐とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 藤原仲麻呂政権下での左遷と再度の入唐の意味・解説 

藤原仲麻呂政権下での左遷と再度の入唐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 09:54 UTC 版)

吉備真備」の記事における「藤原仲麻呂政権下での左遷と再度の入唐」の解説

天平勝宝元年749年阿倍内親王即位孝謙天皇)に伴って従四位上叙せられる。しかし、孝謙朝では大納言紫微令就任した藤原仲麻呂権勢強め左大臣橘諸兄圧倒する。この状況の中で、真備天平勝宝2年750年)に格下地方官である筑前守次いで肥前守に左遷された。筑前国はかつて藤原広嗣反乱の際に最初に軍営造った場所で、肥前国は広嗣が捕らえられ誅殺された国であったことから、真備のこれら国守への任官は広嗣の乱の残党による再度反乱防止するために行われたとする見方がある。 一方同年には第12次遣唐使派遣されることになり、大使藤原清河副使大伴古麻呂任命される。ところが、翌天平勝宝3年751年)になると真備追加副使に任ぜられるが、副使が2名となるだけでなく、大使藤原清河従四位下)より副使吉備真備従四位上)の方が位階が上という異例の人事であった結局天平勝宝4年752年出航直前藤原清河正四位下二階)、大伴古麻呂従四位上(四階)と大幅に昇進させて、体裁整えられている。同年真備らは再び危険な航海経て入唐する。唐では高官に昇っていた阿倍仲麻呂尽力もあり、仲麻呂案内者として宮殿府庫一切見学許されたほか、帰国当たって鴻臚卿・蒋挑捥が揚州まで同行するなど、破格厚遇得られたという。翌天平勝宝5年753年6月頃に遣唐使節一行は帰国の途に就き11月蘇州から日本向けて出航真備第三船に乗船すると、鑑真同じく屋久島漂着し、さらに紀伊国牟漏埼(現在の和歌山県東牟婁郡太地町)を経由して、何とか無事に帰朝した。なお、この帰途では大使藤原清河阿倍仲麻呂らの船は帰国失敗し、唐に戻されている。 帰朝しても真備中央政界での活躍許されず、天平勝宝6年754年正四位下大宰大弐叙任されまたもや九州地方下向する。この頃日本対等立場求め新羅との緊張関係が増していたことから、近い将来新羅との交戦可能性予見し、その防備のために真備大宰府赴任させたとの見方がある。10年近く亘る大宰府赴任中、大宰帥石川年足藤原真楯阿倍沙弥麻呂船王藤原真先の5人だったが、船王以外はいずれ参議兼官であったことから、真備大宰府実質的な責任者であったとみられる。 まず、天平勝宝8歳756年新羅対す防衛のため筑前国怡土城築き天平宝字2年758年)唐の安史の乱備えるよう勅を受けている。天平宝字3年759年以下の通り不安点四ヶ条を大宰府より言上する。この進言は、内容鑑みて軍事精通し怡土城築いた真備によって原案作成されたと考えられる警固式では、博多大津壱岐・対馬など要害の地には100隻以上の船を不測の事態備えることを定めているが、現在使用できる船がなく、万一事態発生して間に合わない大宰府三方を海に面しており諸蕃国と向き合っている。一方で東国からの防人派遣廃止して以降国境守護日毎荒廃している。万一事変発生しても、我が国威力を示すことができない管内防人専ら築城止め武芸修練努め戦場での陣立てを習うことになっている。しかし、大宰大弐吉備真備築城のために防人に対して50日間武芸教習し、10日築城のための労役課すことを論じており、大宰府の中で意見割れている。 天平4年732年)に勅があり、西海道諸国兵士調庸全て免除し同じく白丁は調を免除して庸のみ輸納させることとした。当時はこれにより民は休まり兵は強まった。現在は管内百姓窮乏極みにある者が多く、再び租税労役減免なければ自立することができない。 これに対して淳仁天皇より以下の勅があった。 公用食糧支給し雑徭によって造船を行う。 東国からの防人派遣衆議により許されない管内防人10日労役課すことは、真備建言認める。 租税労役減免については、行政理に適って行われれば人民自然に富強になるはずで、官人はその職務をよく務め朝廷委任沿うようにせよ。 天平宝字3年759年6月新羅を討つために大宰府にて行軍式(軍事行動に関する規定)が作成されると、8月新羅征討を行う方針決まり同年9月には船500艘を造ることが決まるなど遠征の準備進められるが、これに関して、以下の活動記録がある。なお、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わっている。 天平宝字4年760年平城京から派遣され授刀舍人春日部三関中衛舍人土師関成らに対して諸葛亮の「八陳」と孫子の「九地」、および軍営作り方教授した天平宝字5年761年新羅征討軍備整えるために節度使設置されると、西海道節度使に任ぜられる(副使多治比土作佐伯美濃麻呂)。 大宰府赴任中の真備は対新羅拠点となる築城行い、四ヶ条の言上により新羅征討計画に対して重要な示唆与え行軍式を作成するなど、唐で学んだ兵学実践して麻呂政権通じて計画され新羅征討策の一翼担った

※この「藤原仲麻呂政権下での左遷と再度の入唐」の解説は、「吉備真備」の解説の一部です。
「藤原仲麻呂政権下での左遷と再度の入唐」を含む「吉備真備」の記事については、「吉備真備」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「藤原仲麻呂政権下での左遷と再度の入唐」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「藤原仲麻呂政権下での左遷と再度の入唐」の関連用語

1
12% |||||

藤原仲麻呂政権下での左遷と再度の入唐のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



藤原仲麻呂政権下での左遷と再度の入唐のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの吉備真備 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS