藤原仲麻呂の新羅征討計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 13:20 UTC 版)
「新羅の入寇」の記事における「藤原仲麻呂の新羅征討計画」の解説
天平宝字2年(758年)、唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、藤原仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。天平宝字3年(759年)新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる。 「藤原仲麻呂」および「新羅征討計画」も参照 朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、人質の献上や朝貢を受けるなどし、従来から新羅を属国と見なして来た日本(『隋書』倭国伝は、新羅が倭国を敬仰して、使いを通じていたと記している。)は激しい反感を持ち、その様子は仲麻呂が渤海の要請により新羅討伐計画を立ち上げた際の主張である、「新羅が属国であるにも関わらず日本に非礼であるためとしている」に伺える。
※この「藤原仲麻呂の新羅征討計画」の解説は、「新羅の入寇」の解説の一部です。
「藤原仲麻呂の新羅征討計画」を含む「新羅の入寇」の記事については、「新羅の入寇」の概要を参照ください。
- 藤原仲麻呂の新羅征討計画のページへのリンク