藤原伊実
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/27 07:05 UTC 版)
時代 | 平安時代後期 |
---|---|
生誕 | 保安3年(1123年)或いは天治2年(1125年)[1] |
死没 | 永暦1年9月2日(1160年10月3日)[2] |
官位 | 正三位、中納言 |
主君 | 崇徳天皇[3] →近衛天皇→後白河天皇→二条天皇 |
氏族 | 藤原北家中御門流 |
父母 | 父:藤原伊通、母:按察使藤原顕隆の娘 |
兄弟 | 為通、伊実、呈子 |
妻 |
相模権守公長の娘 刑部卿藤原範兼の娘 |
子 | 清通(伊保)、伊輔、実修、覚伊(観実)、実宝、実厳 |
藤原 伊実(ふじわら の これざね)は、平安時代末期の公卿。太政大臣・藤原伊通の次男。官位は正三位・中納言。
相撲に生きる反骨の雅
『古今著聞集』に藤原伊実の逸話が伝えられている[4]。彼はもともと相撲や競馬などの武芸を好み、学問にはほとんど関心を示さなかったという。父の伊通はたびたびこれを叱責したが、伊実は改めようとしなかった。当時、「腹くじり」と称される相撲取りがいた。この力士は必殺技として相手の腹に頭を突き入れ、必ず転倒させることに長けていたため、その異名を得ていた。
伊通は密かにこの力士を召し出し、「我が子・伊実が相撲に耽るのは不本意である。もし彼を転倒させれば褒美を取らせるが、失敗すれば命はないと思え」と命じた。さらに伊実には「お前が相撲に執着するなら、この『腹くじり』と勝負せよ。勝てば以後咎めぬが、負けたら永久に相撲を禁ずる」と宣告した。
勝負の最中、伊実は最初こそ相手の攻撃を許したが、「腹くじり」が得意技を繰り出した瞬間、その四肢を掴み前方へ強く引き倒した。力士は首の骨が軋むほどの衝撃を受け、地面に叩きつけられた。策略が瓦解した伊通は不快の色を隠さず、「腹くじり」は行方をくらましてしまった。以降、伊実の相撲修業を阻む者はいなくなったという。
『古今著聞集』は説話集としての性質上、文学的脚色の可能性を排除できないものの、この逸話のみに注目すれば、伊実は当時の上層公家貴族の中で極めて特異な存在であったと言える。彼が相撲比試で収めた勝利は、単なる力の優位性を示すだけでなく、「柔よく剛を制す」と評されるような、相手の力を逆用して制する戦術的知性を立証している。
官歴
主に『公卿補任』を参照し、適宜表現を調整するとともに他の人物の官歴を補記した。
※日付=旧暦
- 大治5年
- 保延2年
- 12月21日:任侍従元散位
- 保延4年
- 保延6年
- 保延7年
- 1月6日:正五位下少将労
- 康治2年
- 1月6日:従四位下少将労兼国
- 康治7年
- 1月6日:従四位上朝覲行幸賞
- 久安3年
- 久安4年
- 久安5年
- 8月2日:蒙禁色宣旨年廿六
- 久安6年
- 仁平1年
- 2月某日:兼播磨介
- 久寿2年
- 保元1年
- 保元2年
- 保元3年
- 平治1年
- 4月2日:解官依朔日無故不参也[15]
- 平治2年
系譜
主に『尊卑分脈』を参照しつつ、一部の誤記に修正を加えた。
- 父:藤原伊通
- 母:藤原顕隆の娘
- 室:相模権守公長の娘
- 男子:藤原清通(伊保) - 従三位・左京大夫
- 室:藤原範兼の娘
- 生母不明の子女[19]
- 男子:実修 - 妙香院、法印、権大僧都
- 男子:覚伊(観実) - 阿闍梨
- 男子:実宝 - 大法印
- 男子:実厳 - 上座
脚注
- ^ 伊実の生年には二説あり、一つは『公卿補任』に記載された没年と享年から逆算して得られる1123年、もう一つは『尊卑分脈』の没年と享年から逆算して得られる1125年である。
- ^ 両書に記載された没年は一致している。
- ^ 伊実が任官を開始した時の天皇より算する。
- ^ 原文:
中納言伊実卿、相撲・競馬などを好みて、学問なんどをばせられざりけるを、父の大臣伊通公、つねに勘発し給ひけれども、なほしひられざりけり。その時、相撲なにがしとかやいふ上手ありけり。敵の腹へ頭を入れて、かならずくじりまろばしければ、これによりて、腹くじりとぞいひける。件の相撲を、しのびやかにめしよせて、「この中納言が相撲をしのび好むがにくきに、くじりまろかばかせ。さらば纏頭すべし。しからずはなくさんずるぞ。」と仰せ含められにけり。すなはち中納言に「汝が相撲好むに、この腹くじりとつがひて勝負を決すべし。勝ちたらば、われ制止する事あるべからず。負けたらむにおきては、ながくこの事停止すべし。」とのたまひければ、中納言恐れをなして畏まりておはしけり。
さる程に、腹くじりめし出されて、やがて決せられけるほどに、中納言は、腹くじりが好むままに、身をまかせられければ、悦びてくじり入れてけり。その後、中納言、腹くじりが四辻をとりて、前へつよくひかれたりければ、頸もをれぬばかりおぼえて、やがてうつぶしにたふれにけり。大臣興醒め給ふ。腹くじりは逐電しにけり。その後、中納言の相撲制止の沙汰なかりけり。 - ^ 父伊通の当時の官職は権大納言。
- ^ 皇后宮は藤原得子。
- ^ 当時のもう一人の蔵人頭は藤原朝隆。
- ^ 中宮は藤原呈子。
- ^ 天皇は近衛天皇。
- ^ 新帝は後白河天皇であり、伊実は近衛・後白河両天皇の蔵人頭を歴任した。
- ^ 藤原伊通は同日に内大臣に任じられた。
- ^ 藤原忻子が中宮となり、藤原呈子が皇后宮となったことによる。
- ^ 父内大臣伊通は同月19日に左大臣に転任した。
- ^ 統子内親王が皇后宮となり、藤原呈子が皇太后宮となったことによる。
- ^ 同日、参議源定房と参議徳大寺公親も同じ理由で解官されました。
- ^ この日、朝廷では大規模な人事異動が行われ、同日に官位が異動した公卿は以下の通りです:
左大臣藤原伊通→太政大臣
関白右大臣近衛基実→左大臣
権大納言右大将徳大寺公能→右大臣
権大納言松殿基房→内大臣
権大納言藤原重通→大納言
権中納言中宮権大夫源雅通→権大納言
権中納言左衛門督藤原光頼→権大納言
権中納言皇太后宮権大夫藤原伊実→中納言
権中納言藤原公通→中納言
権中納言徳大寺実定→中納言
左中将九条兼実→権中納言
参議源定房→権中納言
参議藤原俊通→兼右中将父藤原宗輔辞太政大臣申任之
大宰大弐平清盛→参議 - ^ 伊実の享年問題及びそこから逆算される生年問題に関しては、既に前段で述べた通り、ここでは言及を控える。
- ^ 『尊卑分脈』に記載された伊輔の極位は従三位とされるが、『公卿補任』に基づき正三位に修正した。
- ^ この者たちは全て出家して僧となった。
- 藤原伊実のページへのリンク