過酷な労役を中止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 19:05 UTC 版)
劉曜は太学を長楽宮の東に建て、小学を未央宮の西に建てた。万民から13歳以上で25歳未満の者を選び、考え方や志向が教育に適している者1500人を入学させた。朝廷の賢人で、儒教に通じ、経に明るく学に篤い者に教授させた。中書監劉均に、国子祭酒を兼ねさせた。また、崇文祭酒を設置し、俸禄は国子祭酒に準じるものとした。散騎侍郎董景道は、経に詳しいので、崇文祭酒に抜擢した。さらに游子遠を大司徒にした。 劉曜は大規模な宮殿や陵墓を建造させようとしたが、侍中の喬豫と和苞に諫められるとこれを聞き入れて宮殿の建設を中止し、陵墓もより小規模なものへと縮小され、加えて詔を発して過失に対する指摘を歓迎する姿勢をアピールした。また酆水の囿(皇室の養魚区)を貧民に開放した。
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