事件発生と事実確認
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 09:13 UTC 版)
「マリア・ルス号事件」の記事における「事件発生と事実確認」の解説
1872年7月9日、清(中国)の壕鏡(マカオ)から南米西岸のペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス(Maria Luz マリア・ルーズ、マリア・ルースと表記する書籍もあり)が、航海中の悪天候から帆先を破損、横浜港にこの修理のために入港した。同船には清国人(中国人)苦力231名が乗船していたが、過酷な待遇から逃れるために木麗(モクヒン)をはじめとする数人の清国人が監視の目を欺いて海中へ逃亡し、イギリス軍艦(アイアンデューク号)に救助を求めた。イギリスはマリア・ルスを「奴隷運搬船」と判断し、イギリス在日公使は日本政府に対し清国人救助を要請した。 当時の外務卿(外務大臣)副島種臣は、神奈川県権令(県副知事)大江卓に清国人救助を命じた。日本とペルーの間では当時二国間条約が締結されていなかったため、政府内には国際紛争をペルーとの間で引き起こすと国際関係上不利であるとの意見もあったが、副島は人道主義と日本の主権独立を主張した。 これにより大江の指揮で、林権典事と法律顧問の米国人ジョージ・ウォーレス・ヒルらによって、マリア・ルス船内の確認作業が進められた。船長ヘレロとの通訳をヒル顧問が担当、追究を重ねた後に、船底で食糧不足等で凄惨な状態となっていた清国人230人を発見した。
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