事件発生までの経緯とは? わかりやすく解説

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事件発生までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 13:19 UTC 版)

東大安田講堂事件」の記事における「事件発生までの経緯」の解説

その中で東京大学においては医学部自治会および青年医師連合卒業生所属)が1968年昭和43年1月下旬より登録医制反対などを唱え通称インターン闘争」に始まる東大紛争東大闘争)を展開した。 これに対して大学側3月11日に「医局員軟禁状態にして交渉した」として17人の学生の処分発表したが、その中に明確にその場にいなかった1人含まれており、このことが学生側更なる怒りを招くこととなる。 翌3月12日医学部総合中央館を、3月27日安田講堂一時占拠し翌日予定されていた卒業式中止された。3月26日には「医闘争支援東大共闘連絡会議」が他学部含めた学生有志によって結成され卒業式阻止主体となった。しかし、この段階では日本共産党日本民主青年同盟、「民青」)系の自治会中央委員会学内の七者連絡協議会は、闘争に対して批判的な立場取ったため、全学自治会には闘争波及していなかった。 医学部では新学期になってストライキ継続していたが、事態膠着し6月15日医学部の「全学闘委員会」が安田講堂再度占拠した大学当局大河内一男東大総長2日後機動隊導入しこれを排除したが、これに対して全学学生反発高まり7月2日安田講堂バリケード封鎖された。 その3日後に「東大闘争全学共闘会議」(全共闘)が結成される以後大学当局打開図ったが更に全共闘新左翼学生反発招き東大全学部のこれらの組織属す学生主導によるストライキや、主要な建物多数封鎖が行われた。11月には大河内総長以下、全学部長辞任した。 これらの全共闘新左翼学生による暴力行為や、9月30日日大紛争日本大学闘争)での大衆団交受けて佐藤栄作政権動き出す11月22日全学バリケード封鎖向けて全共闘系7千名阻止する日共民青)系7千名全国から集まりにらみあう全共闘内部においては早稲田革マル藤原中心となって全学バリケード封鎖反対各派恫喝的に説得する結果的に全学バリケード封鎖中止となり、背景知らない学生一部では、戦時中レイテ沖海戦史実絡めて、「栗田艦隊謎の反転」と語られる

※この「事件発生までの経緯」の解説は、「東大安田講堂事件」の解説の一部です。
「事件発生までの経緯」を含む「東大安田講堂事件」の記事については、「東大安田講堂事件」の概要を参照ください。

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