事件発生の時期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/01 00:08 UTC 版)
真木氏の改姓時期による考え方がある。マキ氏が、長岡藩主・牧野氏に帰参してから、『真木』を、『槙』に改姓したとするならば、上州大胡在城時代(1590年~1618年)に槙三郎左衛門と、馬の儀で喧嘩(馬揃え等の序列)となったとする記述は、姓が『真木』でないから矛盾する。 よって、この事件は、実は長岡移封後におきたものである可能性もあり、あるいはこの事件を記録した著者が『真木』と、『槙』を混同して使用したのか、それとも馬の儀で喧嘩となったことを、著した文献が成立したときのマキ氏の姓を、使用したかのいずれかであると想像される(詳細は越後長岡藩の家臣団を参照)。 一方、喧嘩仲裁をとりもった主君を「諸士由緒記」は真木氏の項では大胡藩主初代牧野康成とし、能勢氏の項では同藩主2代目の忠成として食い違う。忠成の時に長岡入りしたので大胡・長岡いずれの時代ともあり得る。しかし、両氏の伝は、この出来事をいずれも元和4年(1618年)の牧野氏の長岡入封以前のこととして記されており、これを信ずるならば大胡時代の出来事とも思われる。 争いの根底として、次の二つが考えられる。 能勢七郎右衛門正信は、その主観において、槙三郎左衛門を、真木越中守定善の惣領家ではなく、長庶子家と認識していた可能性がある。その根拠として、槙三郎左衛門の叔父となる真木小太夫が、実兄となる真木越中守定善の跡式を嗣いでいたと云う文献がある。つまり槙三郎左衛門は、父の真木越中守定善の家督・跡式を嗣いでいないとの解釈が成立する。 能勢氏の当主・能勢丹波守(能勢惣左衛門)は、牛久保城主・牧野氏が、徳川家康に降伏したことで、牧野氏の旗下を出奔していたので、能勢七郎右衛門は、惣領家はなく、庶子家となるため、槙氏惣領となる三郎左衛門から、格下と認識されていた。 藩政確立期の混乱と苦悩を象徴する事件と言えよう。
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