長岡入封以前
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「疋田氏 (牧野家重臣)」の記事における「長岡入封以前」の解説
疋田氏は室町幕府番衆(庇番)に三河国設楽郡の侍として見えるが、先法家疋田氏との関係は明らかではない。三河時代の牧野家の文書・記録類や牛久保城古図にもその名は見えず、牧野氏三河在住時代の疋田氏と牧野氏の関係は不明である。牛久保城主・牧野氏に与力した疋田氏は、天正年間(1573年~1590年)以前は、牧野氏・真木(槇)氏と、野瀬(能勢)氏とは異なる歴史を持っていた。 天正7年(1579年)の遠江国持舟城(用宗城)合戦において戦死した疋田水右衛門某の忠孝は高く評価されたが、その遺児は幼く自然、立場は微妙であったと云われる。その子(2代目水右衛門正則)が元和元年(1615年)大坂夏の陣でまた戦功をあげたとしるされ、この功により600石を与えられたという。さらに藩主が菊に感嘆したことによって8石の加増をして計608石となった。 疋田正則は元和元年(1615年)大坂夏の陣で武功をあげ、また元和5年の安芸国広島城主・福島正則の改易の際にその上使を務めた牧野忠成に随行するなど、今泉竹右衛門(牧野氏初期の家老・1,300石)らと共に江戸にあった主君忠成を支える側近としてその存在は重く、長岡入封以後には寄会組世襲の格式を得て先法三家の一つとなった。
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長岡入封以前
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「真木氏 (牧野家重臣)」の記事における「長岡入封以前」の解説
北朝観応元年/南朝正平5年(1350年)、河内国古市郡真木村より、金山比古神(金山彦神・かなやまひこのかみ)・金山比売神(金山姫神・かなやまひめのかみ)を奉じて、真木氏の先祖が三河国宝飯郡中條郷に渡来。 (1360年)ごろ中條神社の建立。 永禄3年(1560年)真木(槇)三郎左衛門(某)三州富永口合戦に戦功。 永禄4年(1561年)4月、真木兵庫之助定安(重信)牛久保城の戦いで奮戦して討死。 同年4月14日、真木清十郎(重清・定善)と真木小太夫(重基)に亡父の戦功に関する感状が、駿河の戦国大名今川氏から与えられる。 同年4月16日、真木清十郎(重清)に今川氏真が再び感状。(14日の戦功内容確認) 永禄8年(1565年)2月、今川氏真の朱印状「吉田城中令取替兵粮之事」の宛名(連名)に、真木越中守・同善兵衛の名が見える。 永禄9年(1566年)11月、水野信元副状の宛名(連名)に槇越中守の名が見える。 永禄12年(1569年)、遠州堀川城の戦いに真木又次郎(某)、帰陣後に戦傷死。鍛冶村字一本松に埋葬(現、愛知県営牛久保住宅)。妻の花藻は井戸に飛び込み自殺。真木又次郎は牧野家の旗本であったとされ、牛久保城古図の内廓に屋敷があった。 年月未詳(1590年以降)、真木越中守は、牧野氏の所領2万石の内、知行3,000石を下されるも客人分に指し置かれる。その後、故有って牧野家を出奔。奥州会津坂下村に隠棲した。真木氏を家臣団化して、その当主を600石に差し置くとしたのが原因とされる。出奔後、改易とはならずに真木清十郎重清の実弟に3,000石の内、1700石の相続が認められる。 年月未詳、真木小太夫(某)が病死、その嫡子・真木五郎八500石。
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