文書記録
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「ヴェロニカ・フランコ」の記事における「文書記録」の解説
1565年、ヴェロニカ・フランコは20歳くらいの頃、Catalogo de tutte le principal et più honorate cortigiane di Venetiaに載っていた。そこには、ヴェネツィアの最も有名な売春婦の名前や住所、料金が記されていた。フランコの母親はフランコの玉代が支払われるべき人物として挙げられていた。現存する記録によると、フランコは18歳になるまでに短い間だけ結婚しており、初めての子どもを授かっているという。彼女は結局、6人の子どもを授かったが、その内の3人は幼いうちに亡くなったという。豊かな国際都市の"più honorate cortigiane"(より高貴な高級娼婦)の一人として、フランコは働いていた期間の多くを裕福に暮らした。しかし、「立派な」女性に自動的に与えられていた庇護がなかったので、フランコは努力して自分の人生を歩まなければならなかった。彼女は勉強し、学識のある人たちの中から後援者を探した。1570年代までに彼女は市でより信望のある文学サークルの一つに所属しており、論議に参加したり、詩選を編集して貢献したりしていた。1575年、フランコの初めての詩集が出版された。それは、Terze rimeであり、フランコが書いた18通の"capitoli"(詩の書簡)とフランコへの褒め言葉を書いた男性たちが書いた7通が収められていた。同じ年に、ヴェネツィアでペストが流行し、それは2年間続き、その結果フランコはヴェネツィアを去り、多くの財産を失うことになったのだ。1577年、フランコは市議会に、貧しい女性たちのために家を建てるべきであり、フランコ自身がそのような女性たちの管理人となることを提案したが、却下された。その時までに、フランコは自分の子どもだけではなく、あのペストで孤児となっていた甥までも育てていた。1580年に、フランコはフランスのアンリ三世国王宛のソネット2編と50通の手紙も収めたLettere familiari a diversi(色々な人たちからの親書)を出版した。アンリ三世国王はこの詩集が出版される6年前に、フランコを訪ねていた。1580年以降のフランコの生涯についてはあまり情報がない。しかしながら、フランコはこれ以上作品を出版しなかった。
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