牛久保城の戦いとは? わかりやすく解説

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牛久保城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 02:10 UTC 版)

牛久保城」の記事における「牛久保城の戦い」の解説

牛久保城は、直接的な城攻め受けた記録少ない。永正3年1506年)の今川氏親享禄2年1529年)・天文元年1532年)の松平清康吉田城城主牧野攻めの際にも牛窪城ないし牛久保城直接攻撃免れている。 代表的な牛久保城合戦永禄4年1561年4月徳川家康当時松平元康)の奇襲攻撃がある。 桶狭間の戦い後、今川氏桎梏離れた家康織田信長秘密裏和睦進め三河全土領国化を企図した。当時今川氏勢力にあった東三河地方併合実現するために設楽氏菅沼氏西郷氏等の国人調略して駐留今川軍拠点一つであった牛久保城攻略図った牛久保城牧野成定今川義元指示により西三河西尾城弘治3年1557年)よりこの時まで在番守備しており、居城牛久保城宿老稲垣重宗(平右衛門尉)及び真木氏留守任せていた。牛久保衆の主力は成定及び稲垣長茂藤助)の率い西尾城在番部隊設楽郡野田城の番詰部隊分割されており、本拠地牛久保城守備手薄であった家康牛久保衆の稲垣林四郎牧野弥次右兵衛尉牧野平左衛門父子等有力家臣をも調略のうえ、永禄4年4月11日夜に牛久保城奇襲攻撃夜襲)をかけた(永禄4年4月11日牛久保城の戦い)。 留守居稲垣重宗はちょうど自領の牛久保賀茂豊橋市賀茂町)に帰っており、城は真木兵庫助一族真木越中守定安)らごく少数番手かいなかったため落城危機陥ったが、真木氏奮戦により持ちこたえ、やがて賀茂松平内通勢力重囲抜け出した稲垣重宗が馳せ戻り城内風呂構えで自ら太刀討ちするなどして翌12日迎えた結局家康夜襲失敗終わった。ことは駿府今川氏真知れ以後牧野出羽守朝比奈紀伊守ら今川軍猛反撃が始まることになる。また、この戦い発生まで今川氏側は徳川家康松平元康自立動き認識しておらず、今川氏から見れば松平蔵人徳川家康)の叛逆」、松平氏徳川氏)から見れば今川氏からの自立」がここから始まったと言える。 この牛久保城攻防戦で、真木越中守獅子奮迅働きをして討ち死にした。このときの困難な戦いを氏真は高く評価し感状真木氏遺子2名宛て直接授けた。この事実真木氏は、文書として伝えている。 城主牧野成定西尾城夜陰紛れて脱出し牛久保城無事に帰還したまた、同時期、野田城でも城内松平内通発覚し詰め牛久保衆は牛久保城帰城し、退却してきた駐留今川軍牛久保城入った以後今川氏真牛久保吉田両城反撃拠点とした。このため永禄年間牛久保城家康主要な攻撃目標となるが、周辺設置され今川方諸砦もあいまって野戦展開され永禄6年3月牛久保城の戦い等)、永禄9年1566年5月の正式開城まで落城することはなかった。

※この「牛久保城の戦い」の解説は、「牛久保城」の解説の一部です。
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