牛久保六騎に相当すると推測される各氏の沿革
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牧野山城守は牛久保城主牧野家の分流というが、本宗からいつ分岐したかは不明。宝飯郡平井郷(豊川市平井町)に給地をもった。岩瀬氏とは対照的に軍事面での活動が今川氏の永禄年代の発給文書からも目立つ。特に永禄5年9月22日(新暦1562年10月19日)に牧野八太夫(山城守)が大塚城を徳川氏より奪還したことは特筆される。(関連→牧野康成 (石戸領主)) 稲垣氏は伊勢国出身明応年間三河国に移住したという。平姓(藤原姓とも)というが後に清和源氏支流を称した。屋敷は牛久保城下岸組、本知は八名郡賀茂(豊橋市賀茂町)にあった。平右衛門尉を代々通称とした。文明年中より稲垣氏は、牛久保城主牧野氏の家政を総覧していたともいうが、その直参家臣であったか、寄騎であったかを断定するのは難しく確かなことは不明である。稲垣重宗は牧野氏の宿老的存在である一方、今川氏真の三河出馬の際に案内役を務め以後も氏真の信任が篤かった。重宗の弟は、設楽郡野田城の城代に今川氏によって任じられている。しかし、重宗の惣領である長茂は永禄8年に山本氏ら4人の寄騎とともに岡崎に参向、家康に恭順した。(詳細→三河稲垣氏) 山本氏は駿河国富士郡の吉野氏の分かれで、祝詞職であったともいうが出自については諸説があり一定しない。また伝説上は駿河国久能山城主であったというが史料的根拠に乏しい。源満仲を遠祖とする清和源氏。山本幸綱が三河国八名郡賀茂郷に今川氏により所領を与えられ、第二代が初代の山本帯刀というが、史料が乏しい一方で異なった伝説が数多く存在し不明な点が多い。成氏から代々帯刀を称す。本知は八名郡賀茂郷にあった。また、牛久保城下岸組にも出仕屋敷を持っていた。(詳細→三河山本氏) 岩瀬氏は家伝では奥州岩瀬郡須賀川(現在の福島県須賀川市)出身で藤原姓二階堂氏族という。須賀川城が岩瀬城とも称したかについては諸説がある。その後今川氏の家臣となり三河国宝飯郡千両(豊川市千両町)に移った(旧本知の千両に在った岩瀬氏は後にこの地の郷士となった)。 やがて、岩瀬忠家(治部左衛門尉)が同郡大塚郷中島(蒲郡市大塚町上中島)に大塚城(中島城)を築き、大塚城主初代となった。牛久保六騎の岩瀬氏は天文年間の大塚城主岩瀬氏俊の弟和泉守入道善性が牛久保城主牧野氏に付属した庶流の一つである。 和泉守の子・雅楽助は永禄年中の岩瀬氏あて今川氏真発給文書(感状・判物)によれば、牛久保・吉田両城への兵糧・煙硝・米穀の補給、また銭の融通など経済・物流関係への関与が目立ち今川領内での給付や酒造免許をうけた事などからも今川氏との関係が密である。また、弘治2年(1556年)の牧野民部丞(貞成)逆心の節には牧野山城守(定成)の加担を内談にて押し止めるなど牧野山城守との関係が特筆される。しかし、永禄7年(1564年)大塚城の本家岩瀬河内守(彦三郎)が再度徳川家康に降ると、翌年には稲垣氏等とともに岡崎で家康に恭順した。(詳細→岩瀬忠震のページの三河岩瀬氏) 真木氏は河内国古市郡槙庄出身。鍛冶屋の職能集団を配下としていた。南朝の忠臣・真木定観の末裔説がある。源姓説と橘姓説がある。14世紀に牛久保城近隣の梶の郷(鍛冶郷、豊川市中条町)に移住し本貫地となし、同地と牛久保城の内堀(うちぼり)内と堀外に屋敷を構えた在地の土豪。真木氏は、永禄4年(1561年)徳川方に攻められた牛久保城(城主牧野氏)を孤軍で守り抜き、当主が討ち死した。牛久保六騎の中では、反徳川派で今川派の旗頭的存在であり最後まで戦国大名今川氏に近かったとみられる。(詳細→三河真木氏) 野瀬(能勢)氏は摂津国能勢郡(大阪府能勢町)を本貫地とする室町幕府・御家人の能勢氏(源姓)の一族で摂津国芥川城主の能勢丹波守頼則が牧野古白と連歌の連中であったという。その孫にあたる能勢信景(丹波守)が三河に来住し、のち古白に付属したのもその縁という(「牛久保密談記」)。 よって、しばらく今橋城牧野家の寄騎であったが、今橋牧野家が没落すると牛久保牧野家の寄騎に移った。能勢氏は代々当主は丹波守を称している。永禄8年(1565年)には岡崎に参向し家康に恭順した。三河在住時代における本知は不詳。
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