橘姓説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 11:28 UTC 版)
現在の栃木県塩谷郡塩谷町大字佐貫に存在する佐貫磨崖仏奥の院大悲窟に収められていた建保5年(1217年)2月と刻印された銅版曼荼羅に公頼の名があるが、ここに「右兵衛尉橘公頼」と記されているため、公頼を橘氏の出自とする説が存在する。しかし、これ以外には、公頼を橘姓とする資料は存在しない。『勝山城 ~氏家氏 栄光の時代~』での推察によれば、奈良時代に下野国司として赴任した橘氏の子孫の中に源頼朝の御家人となった橘公長という者がいて、これが公頼である可能性があるとする。公長は弓の名人であったが、公頼も鎌倉幕府の行事などで流鏑馬や笠懸で射芸を披露し、将軍の下で流鏑馬の作法を評議する立場であるほどの弓の名人であり、共通項はある。あるいは、公頼が母方の姓を名乗った可能性もあるとする。 但し、公頼については、宇都宮氏の養子である説があるため、これに基づけば、公頼が元々橘姓のいずれかの氏族の出自である可能性もある。
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