山本氏
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山本氏 | |
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菱?三つ柏? | |
本姓 | 清和源氏義光流 熊野別当支流 |
家祖 | 山本義定? |
種別 | 武家 |
出身地 | 紀伊国 |
主な根拠地 | 紀伊国 |
著名な人物 | 山本忠行 山本忠朝 山本康忠 |
支流、分家 | 早水氏、柏木氏、錦織氏、大鳥氏 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
概要
山本氏は紀伊牟婁郡の富田川流域及び日高郡の一部を領有し、龍松山城[1]を居城とした。
清和源氏義光の孫である山本義定の末裔を称する。また、熊野別当支流の末裔ともされるが、定かではない。
元弘3年(1333年)、鎌倉幕府討幕のために護良親王と共に山本忠行が上洛し、勲功を認められて櫟原(いちはら)荘[2]の地頭に任じられ、その後も南朝方として北朝方の国人と戦うが、やがて紀州中部の有力国人であった湯川氏らと同じく室町幕府奉公衆として四番衆に編入された。
奉公衆となった山本氏は勢力を拡大して3万石を有するまでに成長し、新宮城の堀内氏が台頭するまでは紀南地方最大の勢力を誇った。
応仁の乱の契機となった畠山氏(金吾家)のお家騒動では畠山義就に味方し、畠山政長方の目良氏、神保氏、小山氏等から拠点の市ノ瀬を攻撃されている。
戦国時代中後期には湯川氏の麾下に入り、湯川衆として木沢長政の乱、久米田の戦い、教興寺の戦い等に参加する。小牧・長久手の戦いでは徳川家康に味方したため羽柴秀吉より紀州征伐を受ける。山本氏は湯川衆の頭目であった湯川直春を居城である龍松山城に迎えて3ヶ月間の籠城で防ぎきるも、天正14年(1586年)、和睦の席で藤堂高虎に最後の当主・山本康忠が謀殺されて滅亡した。
系譜
脚注
山本氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 17:07 UTC 版)
山本博士の義理の兄。哺乳動物の母胎外発生の研究者。蒼いよごれた顔の大男。肉づきのいい指の陽気な男。
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山本氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:10 UTC 版)
詳細は「越後長岡藩の家臣団」および「山本義路」を参照 1915年(大正4年)、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男であった高野五十六が海軍大学を修了して、海軍で佐官以上の地位が約束されたとき、牧野忠篤子爵が31歳になる五十六の将来を見込んで、彼が断絶した山本氏を相続するかたちで家名を再興させた。 山本氏は源満政を祖とする清和源氏の一流であり、戦国時代には三河国の小豪族として成長したが、桶狭間の戦い後に徳川家康が岡崎に自立して三河を平定していくなかで、永禄8年(1565年)牧野家と山本家は共に家康に臣従、直参旗本となった。天正年間、山本成行のときに、家康直参のまま上州大胡藩の藩主となっていた牧野康成に与力し、その後そのまま牧野家の家臣となった。元和4年(1616年)に牧野家が越後長岡藩に加増移封されると、山本家は上席家老連綿(上席家老職を世襲する家)1,100〜1,300石の家格に定着した。 大政奉還後の越後長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わって北越戦争で官軍と交戦し敗北、新政府から戦争責任の追及で藩主牧野家は筆頭家老・河井継之助と上席家老・山本帯刀を反乱の首謀者として報告し両家はともに家名断絶となった。このため維新後牧野家では、家祖の代から深いつながりがある山本家の家名再興を使命として尽力することになる。山本家は戸籍の上では1884年(明治17年)にいったん再興されたが、戸籍内に男子がない「女戸」でその女子も死亡して以来、山本氏は廃家となっていた。 山本五十六も太平洋戦争という勝機の少ない戦いに反対しながら、戦争を指揮主導した悲劇的な指揮官として幕末の長岡藩家老・河井継之助同様の立場になっている。 山本氏の後継に選ばれた五十六の高野家は元々信濃上田藩の家臣であったが、慶安元年(1648年)高野七左衛門のときに牧野家に再仕官し、40石の馬廻り衆(中級藩士)となり、延享年間に高野秀右衛門が家老・山本勘右衛門の補佐をしたことを機に、以後代々高野家は山本家と深い関係を持っており、家格も100〜150石の大組(上級藩士)として郡奉行・勘定方支配・取次格などを務めるまでになっていた。しかし山本家廃絶の明治2年には、首脳部から外れて8等官・計司となっていた。
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山本氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:00 UTC 版)
この山本家は、鎌倉の源氏三代将軍からの大隅国御家人・地頭で、本姓建部、名字禰寝(根占)を名乗った豪族禰寝氏(根占・小松氏)の一庶流(分家)、山本(山元)氏に遡る。16世紀末すべての禰寝一族は、本家も庶流も勝者となった島津家のもとに置かれるに至った。こうして島津氏に仕えることになった同家は、「伯爵山本権兵衛傳」(原書房)の系図によると「本藩人物誌」に登場する宮崎衆中から島津家家臣になった山元備前守、壱岐守親子の子孫の分家筋であるという。山本五郎左衛門盛香の3男の山本盛備は分家し、小野蘭山に師事して本草学を修め庭奉行を務めた。その養子で甥の盛賢、その子盛珉は右筆を務めた(『日本の名門名家 人物系譜総覧』など)。また、盛賢は享和2年(1802年)に大阪で死去し、大阪福島の妙徳寺に埋葬されたが、同じ寺に大久保利敬(大久保利通祖父)も埋葬されているという。家紋は抱き鬼梶の葉(これは本流禰寝[根占]・小松氏と同一家紋で、同時代人小松清廉も同じ)。
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