山本氏とは? わかりやすく解説

山本氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/03 10:21 UTC 版)

山本氏
菱?三つ柏?
本姓 清和源氏義光
熊野別当支流
家祖 山本義定?
種別 武家
出身地 紀伊国
主な根拠地 紀伊国
著名な人物 山本忠行
山本忠朝
山本康忠
支流、分家 早水氏、柏木氏、錦織氏、大鳥氏
凡例 / Category:日本の氏族

山本氏(やまもとし)は、日本氏族紀伊国国人

概要

山本氏は紀伊牟婁郡富田川流域及び日高郡の一部を領有し、龍松山城[1]を居城とした。

清和源氏義光の孫である山本義定の末裔を称する。また、熊野別当支流の末裔ともされるが、定かではない。

元弘3年(1333年)、鎌倉幕府討幕のために護良親王と共に山本忠行が上洛し、勲功を認められて櫟原(いちはら)荘[2]の地頭に任じられ、その後も南朝方として北朝方の国人と戦うが、やがて紀州中部の有力国人であった湯川氏らと同じく室町幕府奉公衆として四番衆に編入された。

奉公衆となった山本氏は勢力を拡大して3万石を有するまでに成長し、新宮城の堀内氏が台頭するまでは紀南地方最大の勢力を誇った。

応仁の乱の契機となった畠山氏(金吾家)お家騒動では畠山義就に味方し、畠山政長方の目良氏、神保氏、小山氏等から拠点の市ノ瀬を攻撃されている。

戦国時代中後期には湯川氏の麾下に入り、湯川衆として木沢長政の乱、久米田の戦い教興寺の戦い等に参加する。小牧・長久手の戦いでは徳川家康に味方したため羽柴秀吉より紀州征伐を受ける。山本氏は湯川衆の頭目であった湯川直春を居城である龍松山城に迎えて3ヶ月間の籠城で防ぎきるも、天正14年(1586年)、和睦の席で藤堂高虎に最後の当主・山本康忠が謀殺されて滅亡した。

系譜 

脚注

  1. ^ 現・和歌山県西牟婁郡上富田町市ノ瀬。
  2. ^ 現・上富田町朝来。
  3. ^ 尊卑分脈』3編P.315-318

山本氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 17:07 UTC 版)

第四間氷期」の記事における「山本氏」の解説

山本博士義理の兄哺乳動物母胎発生研究者蒼いよごれた顔の大男肉づきのいい指の陽気な男。

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山本氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:10 UTC 版)

山本五十六」の記事における「山本氏」の解説

詳細は「越後長岡藩の家臣団」および「山本義路」を参照 1915年大正4年)、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男であった高野五十六海軍大学修了して、海軍で佐官上の地位約束されたとき、牧野忠篤子爵31歳になる五十六将来見込んで、彼が断絶した山本氏を相続するかたちで家名再興させた。 山本氏は源満政を祖とする清和源氏一流であり、戦国時代には三河国の小豪族として成長したが、桶狭間の戦い後に徳川家康岡崎自立して三河平定していくなかで、永禄8年1565年牧野家山本家は共に家康臣従直参旗本となった天正年間山本成行のときに、家康直参のまま上州大胡藩藩主となっていた牧野康成与力し、その後そのまま牧野家家臣となった元和4年1616年)に牧野家越後長岡藩加増移封されると、山本家上席家老連綿上席家老職世襲する家)1,100〜1,300石の家格定着した大政奉還後の越後長岡藩奥羽越列藩同盟加わって北越戦争官軍交戦し敗北新政府から戦争責任追及藩主牧野家筆頭家老河井継之助上席家老山本帯刀反乱首謀者として報告し両家はともに家名断絶となったこのため維新後牧野家では、家祖の代から深いつながりがある山本家家名再興使命として尽力することになる。山本家戸籍の上では1884年明治17年)にいったん再興されたが、戸籍内に男子がない「女戸」でその女子も死亡して以来、山本氏は廃家となっていた。 山本五十六太平洋戦争という勝機少な戦い反対しながら戦争指揮主導した悲劇的な指揮官として幕末長岡藩家老河井継之助同様の立場になっている。 山本氏の後継選ばれ五十六高野家は元々信濃上田藩家臣であったが、慶安元年1648年高野左衛門のときに牧野家に再仕官し40石の馬廻り衆(中級藩士)となり、延享年間高野右衛門家老山本勘右衛門補佐をしたことを機に以後代々高野家山本家と深い関係を持っており、家格100150石の大組上級藩士)として郡奉行勘定方支配取次格などを務めるまでになっていた。しかし山本家廃絶明治2年には、首脳部から外れて8等官・計司となっていた。

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山本氏

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山本権兵衛」の記事における「山本氏」の解説

この山本家は、鎌倉源氏三代将軍からの大隅国御家人地頭で、本姓建部名字禰寝(根占)を名乗った豪族禰寝氏(根占・小松氏)の一庶流分家)、山本山元)氏に遡る16世紀すべての禰寝一族は、本家庶流勝者となった島津家のもとに置かれる至った。こうして島津氏仕えることになった同家は、「伯爵山本権兵衛傳」(原書房)の系図によると「本藩人物誌」に登場する宮崎衆中から島津家家臣になった山元備前守壱岐守親子の子孫の分家筋であるという。山本五郎左衛門盛香の3男の山本盛備分家し小野蘭山師事して本草学修め庭奉行務めた。その養子で甥の盛賢、その子盛珉は右筆務めた(『日本名門名家 人物系譜総覧』など)。また、盛賢は享和2年1802年)に大阪死去し大阪福島妙徳寺埋葬されたが、同じ寺に大久保利敬大久保利通祖父)も埋葬されているという。家紋抱き梶の葉(これは本流禰寝[根占]・小松氏同一家紋で、同時代人小松清廉も同じ)。

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