牧野康成 (石戸領主)とは? わかりやすく解説

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牧野康成 (石戸領主)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/17 10:47 UTC 版)

 
牧野康成
時代 戦国時代安土桃山時代
生誕 天文17年(1548年
死没 慶長4年3月8日1599年4月3日
改名 正勝→康成
別名 半右衛門(通称
主君 今川氏真徳川家康
氏族 牧野氏
父母 父:牧野定成
兄弟 康成、易然(見樹院住職)
小笠原安次の娘
信成
娘(真田信勝室のち斉藤久右衛門信秋室)
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牧野 康成(まきの やすしげ)は、戦国時代の武将・徳川氏の家臣。

概略

初名は半右衛門正勝と称す。のち徳川家康より偏諱を授かり康成と改名する。史書では、ほとんど通称牧野半右衛門として言及される。家康の伊賀越えに随行した(石川忠総留書)。

「石川忠総留書」、および『常山紀談』の「東照宮勝頼と大井川にて御対陣の事」には「牧野半右衛門」、山鹿素行の『武家事紀』には「牧野半右衞門尉」(同姓同名の牧野康成(まきの やすなり)も記載あり)と記される。

父は、三河国宝飯郡牛久保城主・牧野氏の寄騎(牛久保六騎)であった牧野山城守定成。正室は小笠原安次の娘。

まだ徳川氏が三河西部の国人領主松平氏であった時代に、三河東部の有力国人であった牧野氏は、駿河遠江戦国大名今川氏と、新興勢力であった松平氏との間で翻弄されていた。徳川家康(当時は松平家康)が東三河に進攻し優勢になった永禄8年(1563年)に牧野山城守は、嫡子・半右衛門正勝(のちの康成)と共にいちはやく内通した。その後は牛久保城主牧野氏の徳川家康に対する帰順と、家康の三河平定に寄与した。

そののち牧野組を離れ、武蔵国足立郡石戸領(現在の埼玉県上尾市北西部から鴻巣市南西部にかけての地域)に5,000石の所領を与えられ、領内の川田谷村(現在の埼玉県桶川市川田谷)に陣屋を置き、徳川家康の直参となって仕えた。

1599年に死去し、家督は息子の信成(後に下総関宿藩1万7千石の大名となる)が継いだ。

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