南朝の忠臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 10:15 UTC 版)
赤坂城の戦いに敗れた尊雲法親王(のちに還俗して大塔宮護良親王)が高野山に落ちる途中、玉置庄司に阻まれて危機に陥ったとき、野長瀬六郎盛忠・七郎盛衡が軍勢を率いて援けた。危機の連続であった大塔宮護良親王が下赤坂城を逃れて以来はじめて配下に収めた軍勢で、これを機に宮方を一旦離反しかけた十津川も再び大塔宮護良親王に従い、玉置山衆徒も味方につき、大和の宇智、葛城の郷士達も味方し、吉野挙兵および金剛山千早城の後方支援の体制ができあがった。その功績から野長瀬氏は横矢の姓を賜り、以後は横矢氏も称するようになった。 野長瀬氏はその後も、南朝方として楠木正行らと行動をともにし、南朝滅亡後も後南朝に仕えた。 その後、室町時代の間に畠山氏(金吾家)の被官となり、紀伊国人衆として存続した。
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