赤坂城の戦い
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赤坂城の戦い(あかさかじょうのたたかい)は、鎌倉時代末期元弘元年(1331年)9月11日に起こった戦い。河内国・赤坂城(下赤坂城)に於いて、楠木正成が笠置山を落ち延びた護良親王を擁し、寡兵をもって鎌倉幕府の正規軍全4軍とわたり合った籠城戦である。赤坂城は一ヶ月余りの後に陥落したが、護良親王と楠木正成は逃走に成功し、幕府方は目的を果たすことができなかった。鎌倉時代末期の有力武将である楠木正成が、初めて歴史の表舞台に姿を現した戦いでもある。
- ^ a b c d e f g h i j k 長谷川 1994, p. 158.
- ^ Turnbull, Stephen (1977). The Samurai, A Military History. MacMillan Publishing Co., Inc.. p. 97. ISBN 0026205408
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 『太平記』巻三「赤坂城軍事」(天正本では「六波羅北方皇居の事」長谷川 1994, pp. 146–160)
- ^ Morris, Ivan (1975). The Nobility of Failure. Holt, Rinehart and Winston. p. 118. ISBN 9780030108112
- ^ 『太平記』巻二「師賢登山事付唐崎浜合戦事」
- ^ a b 『太平記』巻三「主上御夢事付楠事」
- ^ a b 「護良親王」『朝日日本歴史人物事典』
- ^ 長谷川 1994, p. 11.
- 1 赤坂城の戦いとは
- 2 赤坂城の戦いの概要
- 3 戦いに至るまで
- 4 戦闘の規模
赤坂城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:59 UTC 版)
詳細は「赤坂城の戦い」を参照 9月、笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇らは捕えられ、残る正成は赤坂城(下赤坂城)にて幕府軍と戦った(赤坂城の戦い)。幕府軍は当初、一日で決戦をつけることができると判断し、すぐさま攻撃を開始した。 だが、正成は寡兵ながらもその攻撃によく耐えた。敵が城に接近すれば弓矢で応戦し、その上城外の塀で奇襲を仕掛けた。敵が堀に手を掛ければ、城壁の四方に吊るされていた偽りの塀を切って落として敵兵を退け、上から大木や大石を投げ落とした。これに対し、敵が楯を用意して攻めれば、塀に近づいた兵に熱湯をかけて追い払った。正成のこれらの一連の攻撃により、幕府軍の城攻めは手詰まりに陥った。 新井孝重は、一土豪に過ぎない正成に関東から上洛した軍勢が束になって攻撃を仕掛けたことに注目している。単なる悪党の蜂起であるならばこれほどの大軍勢の投入は有り得ず、正成の尋常ならざる実力の証左であるとしている。正成はかつて幕府に反逆した武士を次々に討伐した合戦の名人であり、鎌倉は明らかに正成を大いなる脅威と認識していたと考えられる。 しかし、赤坂城は急造の城であるため、長期戦は不可能と考えた楠木正成は、同年10月21日夜に赤坂城に自ら火を放ち、幕府軍に城を奪わせた。鎌倉幕府は赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体を20-30体発見し、これを楠木正成とその一族と思い込んで同年11月に関東へ帰陣した。 赤坂城には阿弖河荘の旧主湯浅宗藤(湯浅孫六入道定仏)が幕府によって配置され、その旧領である正成の領地を与えられた。一方、正成は赤坂城の落城後、しばらく行方をくらました。同年末、後醍醐方の護良親王から左衛門尉を与えられた。
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