楠木正季とは? わかりやすく解説

くすのき‐まさすえ〔‐まさすゑ〕【楠木正季】

読み方:くすのきまさすえ

[?〜1336]南北朝時代武将河内の人。正成の弟。名は七郎。正成とともに後醍醐天皇仕え湊川足利尊氏の軍に敗れて自害

楠木正季の画像
紋所の「菊水

楠木正季

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/25 07:50 UTC 版)

 
楠木 正季
『楠正成千破城ニテ音楽歌の英気を礼スの図』より「楠帯刀正季」(歌川貞秀
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 不明
死没 延元元年/建武3年5月25日1336年7月4日
別名 正氏、正景
通称:帯刀、和田七郎
墓所 観心寺
官位 帯刀舎人武者所番衆、窪所番衆
主君 後醍醐天皇
氏族 楠木氏河内和田氏
父母 正遠
兄弟 俊親?、正成正季
正氏賢快(賢秀)、行忠
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楠木 正季(くすのき まさすえ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代武将河内国豪族楠木正成の弟。七郎・帯刀と称した。

概要

『楠正成千破城ニテ音楽歌の英気を礼スの図』(歌川貞秀)、千早城の戦いの籠城戦を舞楽で鼓舞する楠木正季(図像中央)

元弘3年/正慶2年2月22日1333年3月8日)から閏2月1日3月17日)にかけて、上赤坂城の戦いで主将平野将監入道のもと副将として活躍する。

1336年(建武7年/延元元年)に兄の正成は九州から京都を目指す足利尊氏の軍に対して新田義貞の指揮下で戦う事を命じられ、湊川の戦いで敗北する。そして、兄・正成と共に、自害して果てた[1]

正成と正季の死に関しては『太平記』(二)巻第十六「正成兄弟討死事」に述べられている[1]。敗走して手勢の少なくなった楠木勢73人は民家に駆け込み、六間の客殿に二列に並んで座り十念を唱えながら自害したという[1]。死に際に正成が正季に九界のうちどこに行くことを願うか問うと、正季は「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候へ」と答えたという[1]。これはのちの「七生報国」の語の由来になった。

野口雨情の先祖という伝承もある[2]

関連作品

脚注

  1. ^ a b c d 大山眞一「中世武士の生死観(7)―『太平記』における「死にざま」と「生きざま」の諸相」日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 No.10, 343-354 (2009) 日本大学、2021年1月10日閲覧。
  2. ^ 平輪, 光三、佐々木, 靖章『野口雨情』(snippet)日本図書センター、1987年https://books.google.co.jp/books?id=BUPUAAAAMAAJ  p.15 によれば楠木正季より数えて十代の野ロ勝親が、徳川光圀から賜ったとつたわる茶碗を親友にゆずったとある。

関連項目




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