湊川の戦いと最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:59 UTC 版)
詳細は「湊川の戦い」を参照 25日の辰刻(午前8時頃)、楠木・新田連合軍は足利軍と海を挟んで湊川で対峙した(湊川の戦い)。 山本隆志によれば、『梅松論』などから判断する限り、実際のこの戦いはそこまで大きな兵力差があった訳ではなく、細川定禅が率いる水軍の揺動と、それに乗った義貞の失策、その機をうまく突いて新田軍と楠木軍を分断させた足利兄弟の戦術的勝利という面が大きいという。 戦いに敗北した正成は、弟の楠木正季と刺し違えて最期を遂げたと伝わる。正成と正季の死に関しては『太平記』(二)巻第十六「正成兄弟討死事」に述べられている。敗走して手勢の少なくなった楠木勢73人は民家に駆け込み、六間の客殿に二列に並んで座り十念を唱えながら自害したという。死に際に正成は正季に九界のうちどこに行くことを願うか問うと、正季は「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候へ」と答えたという。これはのちの「七生報国」の語の由来になった。
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