湊川神社創建の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 12:03 UTC 版)
湊川神社の特徴は、まず「人を祀る神社」であること、次に「政府が建てた神社」であることが挙げられる。本来、神社の祭神というのは、自然神を祀るところであったが、次第に祭神の範疇が拡大して、人物神も祀られるようになった。天満宮や日光東照宮などがその代表であるが、人物神を祀る神社でも湊川神社は新たなタイプの神社である。殆どの人物神は、天満宮に代表されるように、御霊信仰に基づくものである。それは単なる人物霊ではなく、著しい霊力を備え、神霊と呼ばれるに相応しい段階を経たのち、神社に祀られるのであった。この信仰は、祖先祭祀と結びついて、共同体(家)の首長を神として祀る東照宮などの神社に展開したが、次第に人物神の範囲はさらに広がりを見せた。 一方、江戸時代を通じて、楠木正成は英雄として尊敬されてきた。それは、模範的な人間としての尊敬であり、尊敬される彼はどこまでも人間としての存在であった。しかし、ここにおいて、人を神社に祀るということが顕彰の手段として、採用されることとなる。人物神の範疇が広がることにより、祭神に対する強い宗教的な信念がなくても、人間は神社に神として祀られるようになったのである。また従来の神社において、神社の創建の契機となるのは、神社を建てて祀れという神の意志であり、それを託宣などの形で人々が受けて神社を建てるのである。これは人物神を祀る神社の場合も同様であった。しかし、湊川神社の創建においては、楠木正成の霊が神社を建てて祀ってほしいなどの要求を出したわけではなく、人々が彼の霊を一方的に祀ったのである。ではなぜ顕彰するために神社で祀られたのであろうか。仏教式に寺院に祀ることも可能であったし、孔子などと同じように儒式の廟でも良かったはずである。それは、まず仏教式に祀ることは顕彰にならないことが理由に挙げられる。仏教式で祀るということは、すなわち供養するということであるが、これは故人を追悼・慰霊といった意味合いになるためである。それも宇宙の真理を悟った絶対的存在である仏の慈悲のもとで祀られるのであり、そこではむしろ祀られる人物の有限性が強調されてしまうのである。このため、仏教式で祀るのは、人物を褒め称えるという目的にはそぐわないといえるだろう。 一方、儒式の廟というのは儒学者には馴染みがあったかもしれないが、一般には全く馴染み無いものだったといえる。このため、儒式で祀られることは無かったのである。また廟に祀るということは、あくまでも人間を人間として祀るのであり、神として祀るのではなかった。以上のことから、顕彰をするには神として祀られる必要があり、それには神社がもっとも適していたのである。もちろん現実的には、儒学・国学などの明治維新の原動力となった思想が神道を支持し仏教を排斥したことが一番の原因ではあるが、背景にはこのような考え方があったのだと考えられる。 このような人物を顕彰する神社は、近世の中頃から建てられるようになってきたようだが、近代になって建てられた湊川神社はそのタイプの神社の中でも最も存在感を示し、湊川神社の創建に刺激されて、近代以降、数多くの人物顕彰の神社が建てられるようになった。また靖国神社を始めとする招魂社の創建も基本的には湊川神社と共通した背景を持ち、例えば乃木神社が湊川神社の子孫と言うならば、靖国神社は湊川神社の兄弟であると言えるだろう。湊川神社の創建は、新しいタイプの神社が広がるきっかけとなったという意味で、神社史上重要な位置を占める神社であるといえる。また近代以降、神道という宗教・思想の重要な要素として、国家の功臣を祭祀することが挙げられるようになり、神道思想史上にも無視できない存在となる。ただ、このようにいくら“新しいタイプの神社”であっても、一度神社として成立してしまうと、古代から変化なく連綿と続く神社(この観念自体は実は新しい)というイメージの中に同化されることは興味深い。神社や祭神に関わらず、神社一般と同様の機能が期待され、通常の神社と同様の扱いがなされていくのである。 もうひとつの特徴は湊川神社は明治政府によって建てられたということである。村などの生活共同体でもなく有志でもなく宗教者でもなく藩でもなく、政府によって建てられたのである。明治維新の目的・意義は、国家の近代化にあるように現在では認識されているが、それ以上に古代を理想とした天皇を中心とする国家の実現にあった。その理想には祭政一致が含まれており、神社や神祇の祭祀は、国家がその全てを掌握することが目指されたのである。 近世末、楠木正成は既に国家の英雄としての地位を得ていた。明治になり、湊川神社の創建は当初、複数の藩や有志により提唱されたが、政府はいずれの団体にもその創建を任すことはなく、政府自らが主体となって建てた。国家の英雄である楠木正成の祭祀を政府以外の者に行わせるわけにはいかなかったのである。楠木正成を顕彰する湊川神社は、明治新国家によって建てられることにより、天皇を中心とする国家の誕生を象徴するモニュメントとなったといえる。国家として特定の人物を顕彰するということは、その人物を国民の理想像として提唱し、その生き方を国民に推奨するということである。七度生まれ変わっても国に尽くすと誓い、国家のために死んだと位置付けられる楠木正成を顕彰することは、その生き方を国民に勧めることであり、近代以降、特に第二次世界大戦中において、その果たした役割は小さくないと言えるだろう。 また神社史上、神道学上注目される事項として、墓を境内に含んで神社が建てられていることがある。本来、神社において死のケガレはもっとも忌避すべきものだとされているにもかかわらず、ケガレを持つ墓に隣接して神社が建てられているのである。これは豊国神社・日光東照宮などを受け継ぐものだと言える。ケガレの問題は祭神となった人物は生前にも遡って神と見なすことによって、回避しているのだろう。また近世の神葬祭の発展により、死者の祭祀に神道が関わることへの抵抗が弱まったことも影響しているだろう。しかし、墓と神社、死者の神道祭祀がどうあるべきかの問題は現在でもさまざまな見解があり、定まっていない。
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