楠木正元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 13:44 UTC 版)
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時代 | 南北朝時代 - 室町時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 元中9年/明徳3年(1392年) |
改名 | 二郎(幼名)[1][2]→正元 |
官位 | 河内介[2]、贈従四位[3] |
主君 | 楠木正儀→楠木正勝(後亀山天皇) |
氏族 | 楠木氏 |
父母 | 父:楠木正儀 |
兄弟 | 正勝、正元、正秀 |
楠木 正元(くすのき まさもと)は室町時代の武将。贈従四位。楠木正成の孫で楠木正儀の子。将軍足利義満を暗殺しようとして露見、処刑されたという説がある。
生涯
楠木正成の三男楠木正儀の子として出生、幼名・通称は二郎(『全休庵楠系図』[2]、『群書類従』所収『橘氏系図』[1])。南朝に仕える。官職は河内介(『全休庵楠系図』[2])。
元中9年/明徳3年(1392年)春、畠山基国が率いる室町幕府軍によって本拠千早城が落とされる。
同年、残党と共に斬首される(『全休庵楠系図』[2])。
『桜雲記』下巻によれば、千早城陥落から南北朝合一(明徳の和約)の間までの話として、正元は密計して京に入り、将軍足利義満を暗殺しようとしたが、実行の前に事が露見して処刑された[4]。時の人々は、正成・正行の忠志に違わない人だと正元を称賛したという[4]。
大正4年(1915年)11月大嘗会において、従四位を追贈された[3][5]。
『松染情史秋七草』
『桜雲記』下巻では暗殺実行前に処刑されているが、曲亭馬琴による江戸時代後期の文学作品『松染情史秋七草』はこの逸話を踏まえ、将軍足利義満の暗殺を実行に移すも、失敗して翌日に処刑されたとして描いている[6]。また、同作品は正元の遺児である操丸(久松)を主人公として描いている[6]。
脚注
参考文献
- 経済雑誌社編 「橘氏系図」 『群書類従』 4巻 経済雑誌社、1893年、222–230頁。doi:10.11501/1879789。NDLJP:1879724 。
- 近藤瓶城編 「桜雲記」 『史籍集覧』 3巻(再版) 近藤出版部、1906年。doi:10.11501/3431170。NDLJP:3431170 。
- 『贈位功臣言行録』 国民書院、1916年。doi:10.11501/955104。NDLJP:955104 。
- 藤田精一 『楠氏後裔楠正具精説』 湊川神社、1938年 。
- 中尾, 和昇「『松染情史秋七草』論」『國文學』第92巻、関西大学国文学会、2008年、 211–226。
固有名詞の分類
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