千早城の戦い
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千早城の戦い(ちはやじょうのたたかい)は、1333年(元弘3年、正慶2年)に後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した河内の武将である楠木正成と、鎌倉幕府軍との間で起こった包囲戦。千早城は上赤坂城・下赤坂城と並び、現在の大阪府千早赤阪村に位置する山城である。
注釈
原文
- ^ a b 『楠木合戦注文』「斉藤新兵衛入道、子息兵衛五郎、佐介越前守殿御手トシテ相向奈良道是者搦手之処、去月廿七日楠木爪城金剛山千早城押寄、相戦之間、自山上以石礫、数カ所被打畢、雖然今存命凡家子若党数人手負或打死」[1]
出典
- ^ 藤田 1938, p. 128.
- ^ a b 藤田 1938, p. 148.
- ^ a b 長谷川 1994, p. 478.
- ^ a b c d e f g h i j k 新井 2011, pp. 123–124.
- ^ [[#CITEREF|]].
- ^ a b 『太平記』巻六「楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事」
- ^ a b c d e 『太平記』巻六「関東大勢上洛事」
- ^ 千葉氏: 鎌倉・南北朝編、251頁
- ^ 高石市史, 第 2 巻、552頁
- ^ a b c d e f 『太平記』巻六「赤坂合戦事付人見本間抜懸事」
- ^ 『日本の歷史: 蒙古襲来』、510頁
- ^ a b 『太平記』巻七「吉野城軍事」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 『太平記』巻七「千剣破城軍事」
- ^ 『太平記』巻七「先帝船上臨幸事」
- ^ a b c d e 『太平記』巻九「千葉屋城寄手敗北事」
- ^ 峰岸・35-36頁
- ^ 山本・33頁
- ^ 長谷川 1994, p. 337.
- ^ 小学館『赤坂・千早城の戦い』
- ^ 新井 2011, pp. 133–134.
- ^ 『野長瀬家系図』
- ^ 呉座 2014, pp. 97–102.
千早城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:26 UTC 版)
詳細は「上赤坂城の戦い」および「千早城の戦い」を参照 護良親王と楠木正成の両者は各々潜伏し、機会を伺っていた。元弘2年/正慶元年(1332年)、楠木正成は河内国金剛山の千早城で挙兵し、同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。正成は12月に赤坂城を奪回し、元弘3年/正慶2年(1333年)には六波羅勢を摂津国天王寺などで撃破した。 これに対し幕府は再び大仏家時・大仏高直兄弟、名越宗教らが率いる大軍を差し向けた。金剛山系に籠城する楠木勢に対し、先ず幕府軍は正成の悪党仲間の平野将監入道・正成の弟楠木正季らが守る上赤坂城へ向かった。上赤坂城の守りは堅く幕府軍も苦戦するが、城の水源を絶ち、平野将監らを降伏させた。同じ頃、吉野では護良親王が敗れた。 これにより、正成がわずかな軍勢で篭城する千早城を残すのみとなったが、楠木軍は鎧を着せた藁人形を囮として矢を射掛けるなどといった策により、再び幕府軍を翻弄した。幕府軍は水源を絶とうとしたが、千早城では城中に水源を確保していたため効果はなかった。楠木軍は一部が打って出て包囲方を奇襲し、軍旗を奪って城壁に掲げ嘲笑してみせるなど、90日間にわたって幕府の大軍を相手に戦い抜いた。 幕府軍が千早城に大軍を貼り付けにしながら落とせずにいる、との報は全国に伝わり、各地の倒幕の機運を触発することとなった。
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千早城の戦い
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詳細は「千早城の戦い」を参照 やがて、北条高時は畿内で反幕府勢力が台頭していることを知り、9月20日に30万余騎の追討軍を東国から派遣した。これに対し、正成は河内国の赤坂城の詰めの城として、千早城をその背後の山上に築いた。正成は金剛山一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として千早城を活用し、千早城、上赤坂城、下赤坂城の3城を以て幕府に立ち向かうことにした。 元弘3年/正慶2年(1333年)2月以降、正成は赤坂城や金剛山中腹に築いた千早城で幕府の大軍と対峙し、ゲリラ戦法や落石攻撃、火計などを駆使して幕府の大軍を相手に一歩も引かず奮戦した(千早城の戦い)。正成は後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間、大和国(奈良県)の吉野などで戦った護良親王とともに幕府勢力に果敢に立ち向かい、同年閏2月に後醍醐天皇は隠岐を脱出した。 幕府の軍勢が千早城に釘付けになっている間、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、赤松円心ら反幕勢力が挙兵した。5月7日には足利高氏(のち尊氏)が六波羅を攻め落とし、京から幕府勢力は掃滅された。5月10日、六波羅陥落の報が千早城を包囲していた幕府軍にも伝わり、包囲軍は撤退し、楠木軍の勝利に終わった。 そして、5月22日に新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしたが、その挙兵は正成の奮戦に起因するものであった。正成の討伐にあたって膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、新田荘に対して6万貫もの軍資金をわずか5日で納入するように迫り、その過酷な取り立てに耐え切れなくなった義貞が幕吏を殺害・投獄して反旗を翻したのである。 正成は後醍醐天皇が京へ凱旋する際、6月2日に兵庫で出迎え、道中警護についた。天皇が兵庫を出発して以降、正成はその行列の先陣を務め、その後陣には畿内の軍勢7千騎を引き連れていた。
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