わら人形作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 03:29 UTC 版)
長引く籠城戦で包囲軍に士気に緩みが見えてくると、籠城軍の兵も退屈になりはじめたため、正成は「今こそ寄せ手の目を覚ましてやろう」と策をめぐらすようになった。正成は兵らにわら人形を20-30体作らせ、甲冑を着せ弓や槍を持たせた。その人形を夜のうちに城外の麓に並べ、後ろに兵500を潜ませ、夜明けになると朝霞の中から鬨の声をあげさせた。 幕府軍は楠木軍の攻撃を決死の攻撃と思いこみ攻め寄せた為、兵500は矢を放ちながら徐々に城内に引き上げた。鎌倉幕府軍がわら人形に到達した所を見計らい、大量の大石を投げ落とし、300名が即死、500名が負傷した。 これ以降、幕府軍はさらに戦を控え始め、諸国から集められた兵は何もせず、各大名の陣営では江口や神崎から遊女を呼び寄せ、遊びふける有様だった。また、名越軍では、名越宗教(遠江入道)と甥の名越兵庫助が賽の目から口論となり、互いに刺し違えて死んだため、双方の家来が戦って200余人が殺される騒ぎが起きた。籠城中の楠木軍からは、天皇に敵対したために天罰を受け、自滅する馬鹿な人々だと嘲笑された。
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