関戸の戦いとは? わかりやすく解説

関戸の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/29 21:25 UTC 版)

関戸の戦い
戦争元弘の乱
年月日元弘3年5月16日
ユリウス暦1333年
場所霞ノ関(現在の東京都多摩市関戸
結果後醍醐天皇勢力の勝利
交戦勢力
鎌倉幕府 後醍醐天皇勢力
指導者・指揮官
北条泰家 新田義貞
元弘の乱

関戸の戦い(せきどのたたかい)は、鎌倉時代後期の1333年元弘3年)5月16日に霞ノ関(現在の東京都多摩市関戸)一帯で、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。関戸(の)合戦とも言う。

概要

1333年(元弘3年)5月16日、新田義貞は鎌倉幕府倒幕の際に分倍河原の戦いで勝利し、同日に多摩川を越えた。

一方、分倍河原から退いた北条泰家(鎌倉幕府第14代執権・北条高時の弟)は5万の軍勢で鎌倉幕府の関所である霞ノ関一帯で防衛戦を行った。この戦いでは新田軍側が勝利を収め、北条泰家は家臣の横溝八郎や安保入道父子の奮戦によって一命を取り止め鎌倉に逃走したが、横溝八郎、安保入道父子は関戸で討死をしている。

翌17日、関戸に一日逗留して体勢を立て直した義貞は鎌倉へ攻撃を開始した。この関戸の戦いから6日後の1333年5月22日、鎌倉幕府は滅亡した。

霞ノ関跡の周辺には横溝八郎、安保入道父子の墓と伝えられる塚や無縁仏(無名戦士の墓)が残っており、旧鎌倉街道沿いにある地蔵堂の前には関戸古戦場跡の標柱が建っている。現在でも多摩市にある観音寺では、毎月16日に戦いで亡くなった兵士のために供養を行っている。

脚注

参考文献

関連項目


関戸の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/25 16:41 UTC 版)

霞ノ関」の記事における「関戸の戦い」の解説

1333年元弘3年5月15日新田義貞足利尊氏鎌倉幕府倒幕の際に分倍河原の戦い勝利し翌日5月16日には多摩川越え、この関所一帯北条泰家鎌倉幕府第14代執権北条高時の弟)が防衛戦行った(関戸の戦い)。関所跡周辺には北条泰家家臣である横溝八郎安保入道父子の墓と伝えられる塚や無縁仏無名戦士の墓)が残っている。 現在でも観音寺多摩市関戸)では毎月16日戦いで亡くなった兵士のために供養行っている。

※この「関戸の戦い」の解説は、「霞ノ関」の解説の一部です。
「関戸の戦い」を含む「霞ノ関」の記事については、「霞ノ関」の概要を参照ください。

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