赤坂城の奪還、和泉・河内の制圧とは? わかりやすく解説

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赤坂城の奪還、和泉・河内の制圧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:59 UTC 版)

楠木正成」の記事における「赤坂城の奪還、和泉・河内の制圧」の解説

元弘2年/元徳4年1332年4月3日、正成は湯浅宗藤依る赤坂城襲撃した。正成は赤坂城内に兵糧少なく湯浅宗藤領地の阿弖河荘から人夫5、6百人兵糧持ち込ませ、夜陰乗じて城に運び入れることを聞きつけ、その道中を襲って兵糧奪い自分の兵と人夫やその警護の兵とを入れ替え、空になった俵に武器仕込んだ楠木軍は難なく城内に入ると、俵から武器取り出して鬨の声上げ城外軍勢もまた同時に城の木戸破った。これにより、湯浅宗藤一戦交えることなく降伏し、正成は赤坂城奪い返した楠木勢は湯浅氏引き入れたことで勢いづき、瞬く間和泉河内制圧し一大勢力となった。そして、5月17日には摂津住吉天王寺進攻し、渡部橋より南側布陣した。京には和泉河内両国から早馬矢継ぎ早に送られ、正成が京に攻め込む可能性があると知らせたため、洛中大騒ぎとなったこのため六波羅探題隅田高橋南北六波羅軍奉行とし、5月20日に京から5千の軍勢派遣した5月21日六波羅軍渡部橋まで進んだが、渡部橋南側楠木軍は300騎しかおらず、兵らは我先にと川を渡ろうとした。だがこれは正成の策略で、前日主力軍は住吉天王寺付近に隠して 2,000余騎の軍勢三手分けており、わざと敵にを渡らせてから流れ深み追い込み一気雌雄を決すという作戦であった。正成は敵の陣形がばらけたところで三方から攻め立て大混乱陥った敵は大勢討たれ残り命からがら京へと逃げ帰った

※この「赤坂城の奪還、和泉・河内の制圧」の解説は、「楠木正成」の解説の一部です。
「赤坂城の奪還、和泉・河内の制圧」を含む「楠木正成」の記事については、「楠木正成」の概要を参照ください。

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