赤坂宿
赤坂宿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 14:34 UTC 版)
江戸時代には、東海道の赤坂宿があった。赤坂宿の旅籠には多くの飯盛女が在籍し、「ごゐや赤坂吉田がなけりゃ なんのよしみに江戸がよひ」(中野得信『山家鳥虫歌』)などと詠われた。1718年、幕府は飯盛女の人数を旅籠一軒当たり2人に制限したが、そうした命令はしばしば破られた。 参勤交代制の確立に伴い、諸街道の宿駅には本陣が置かれた。交通量の増大は人馬の不足を招き、宿駅近郊ではこれを解消するため、多数の助郷村が生まれた。赤坂宿にも本陣や助郷村が存在した。 御油宿と赤坂宿の駅間距離は16町(約1.75km)と、東海道の宿駅の中で最も短かった。関川神社には、松尾芭蕉の俳句「夏農月 御油よ季いてゝ 赤坂や(夏の月 御油より出でて 赤坂や)」を刻んだ句碑(1893年建立)が残る。京大教授潁原退蔵の『芭蕉句集』によると、この句は夏の夜の短さを御油-赤坂間の距離の短さに喩えたものである。
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