南朝との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)
尊氏が政権に参加せず、武士層の支持を集められなかった新政に対しては各地で反乱が起こった。建武2年(1335年)には、信濃において高時の遺児である北条時行らを擁立した中先代の乱が起こり、尊氏の弟の足利直義が守る鎌倉を攻めて占領した時行勢の討伐に向かう尊氏に導誉も従軍している。時行勢を駆逐して鎌倉を奪還した尊氏は独自に恩賞の分配を行うなどの行動をはじめ、導誉も上総や相模の領地を与えられている。 後醍醐天皇は鎌倉の尊氏に対して上洛を求めるが、新田義貞との対立などもありこれに従わず、遂には義貞に尊氏・直義に対する追討を命じた綸旨が発せられる。しかし、建武政権に対して武家政権を樹立することを躊躇する尊氏に導誉は積極的な反旗を勧めていたともされる。建武の乱では、足利方として駿河国での手越河原の戦いに参加するが新田義貞に敗れ、弟の貞満らが戦死した。道誉自身は義貞に降伏し、以降新田勢として従軍して足利方と争うが、箱根・竹ノ下の戦いの最中に新田軍を裏切り足利方に復帰、この裏切りにより新田軍は全軍崩壊し敗走した。道誉を加えた足利方は新田軍を追い京都へ入り占拠するが、奥州から下った北畠顕家らに敗れた足利軍は京都を追われ、兵庫から九州へと逃れた。この時導誉は近江に滞在して九州下向には従っていないともされる。 九州から再び東上した足利軍は湊川の戦いで新田・楠木軍を撃破して京都へ入り、比叡山に逃れた後醍醐天皇・義貞らと戦った。導誉は東から援軍として来た信濃守護小笠原貞宗と共に、9月中旬から29日まで補給路である琵琶湖を近江国を封鎖する比叡山包囲に当たっている(近江の戦い)。やがて尊氏の尽力で光明天皇が即位して北朝が成立、尊氏は征夷大将軍に任じられて室町幕府を樹立し、後醍醐天皇らは吉野へ逃れて南朝を成立させる。
※この「南朝との戦い」の解説は、「佐々木道誉」の解説の一部です。
「南朝との戦い」を含む「佐々木道誉」の記事については、「佐々木道誉」の概要を参照ください。
- 南朝との戦いのページへのリンク