足利政権の立役者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)
導誉は若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津の守護を歴任した。延元2年/建武4年(1337年)、勝楽寺(現滋賀県甲良町)に城を築き、以降没するまで本拠地とした。 興国元年/暦応3年(1340年)10月6日には長男の秀綱と共に白川妙法院門跡亮性法親王の御所を焼き討ちし、山門宗徒が処罰を求めて強訴すると朝廷内部でもこれに同情して幕府に対して導誉を出羽に、秀綱を陸奥に配流するように命じた。ところが、幕府では朝廷の命令を拒絶、結果的に導誉父子は上総に配流される。この配流の行列は若衆数百人を従え道中宿所に着くたびに傾城を弄び、さらには比叡山の神獣である猿の皮を腰あてにするというありさまであり、導誉の山門への敵意、蔑視の程が窺える。 羽下徳彦によれば、上総は建武年間に尊氏の執事高師直が守護を務め、正平年間に導誉と共に流された秀綱が守護を務めているが、導誉配流期の守護については記録に残っていない。このため、佐々木氏による上総守護の上限が正平年間以前であったことも考えられ、実は導誉父子は流刑と銘打って自分の領国に帰されただけであった可能性があるという。森茂暁は山門に悩まされる尊氏・直義兄弟の暗黙の了解のもとで、山門に大打撃を与えることを目的にした狼藉であると推察しており、いずれにせよ尊氏兄弟には導誉を罰するつもりなど毛頭無かったものと推察される。事実、翌年には何事もなかったかのように幕政に復帰している。 幕府においては導誉は引付頭人、評定衆や政所執事などの役職を務め、公家との交渉などを行っている。また、正平3年/貞和4年(1348年)の四條畷の戦いなど南朝との戦いにも従軍しているが、帰還途中に南朝に奇襲を受け、次男の秀宗が戦死している。 室町幕府の政務は当初もっぱら弟の直義が主導したが、南朝との戦いにより戦時体制を主導する高師直の勢威が高まり、直義・師直の関係の悪化や尊氏の庶子直冬への憎悪と嫡男義詮への偏愛等が複雑に絡み合い、正平5年/観応元年(1350年)からの観応年間には観応の擾乱と呼ばれる内部抗争が発生する。導誉は当初師直派であり、擾乱が尊氏と直義の兄弟喧嘩に発展してからは尊氏側に属したが、南朝に属し尊氏を撃破した直義派が台頭すると、翌正平6年/観応2年(1351年)7月28日、尊氏・義詮父子から謀反の疑いで播磨の赤松則祐と共に討伐命令を受ける。これは陰謀であり、尊氏は導誉を討つためと称して京都から近江へ出兵、義詮は則祐討伐のため播磨へ出陣したが、これは事実上京都を包囲する構えであり、父子で京都に残った直義を東西から討ち取る手筈で、事態を悟った直義は逃亡した。 以後も尊氏に従軍、尊氏に南朝と和睦して後村上天皇から直義追討の綸旨を受けるよう進言する。尊氏がこれを受けた結果正平一統が成立し直義は失脚、急逝する。また、12月1日には義詮から佐々木一族を軍事的に統率する権利を与えられた。これは惣領の六角氏頼が観応の擾乱で直義に付いたがその後出家した事態に対応するため、導誉を惣領格にして佐々木氏をまとめる狙いがあった。ただし、氏頼は後に復帰、六角氏は以後も幕府から佐々木惣領家として認められているため、一時的な対策だったとされる。 正平一統は正平7年/文和元年(1352年)に北朝の光厳上皇・光明上皇・崇光天皇らが南朝に奪われて破綻すると、3月の八幡の戦いで義詮に従い南朝から京都を奪還、6月に公家の勧修寺経顕を通して交渉、後光厳天皇を擁立して天皇の祖母西園寺寧子に践祚の儀を行うよう説得して実現させ、北朝再建と将軍権力の強化に尽力する。しかし、山名時氏・師義父子と所領問題で対立したため、翌正平8年/文和2年(1353年)6月に時氏と南朝の軍勢が京都を陥落、京都から北へ落ち延びた後光厳天皇と義詮を守って秀綱が戦死している。
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