足利幕臣から細川氏の家老へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 02:21 UTC 版)
「松井氏」の記事における「足利幕臣から細川氏の家老へ」の解説
松井氏は、室町時代には足利将軍家に仕える幕臣だった。足利義輝が永禄8年(1565年)に殺害されると(永禄の変)、松井正之の子松井康之は、同じく足利将軍家に仕えていた細川藤孝(幽斎)と共に、義輝の弟足利義昭を将軍に擁立するために行動する。 康之は、義昭が織田信長を頼ったときにもその宿所いたことが確認できる。やがて細川藤孝のもとで働くようになった康之は、藤孝の嫡男細川忠興(三斎)と明智光秀の三女玉(ガラシャ)の婚礼で玉姫の輿入請取役を務めている。 信長の下で細川氏は丹後国の領主となり、その重臣として康之は丹後国松倉城を任せられた。生涯50余度の合戦に出陣した康之は武功高く、石田三成の家老島左近や上杉景勝の家老直江兼続らと並んで世に名家老と謳われた。康之の働きぶりをみた豊臣秀吉は石見半国18万石に取り立てようともちかけたが、康之は引き続き細川家に仕えることを望んでこれを辞退した。その忠節に感じ入った秀吉は、康之が信長から拝領していた山城国相楽郡神童寺村及び愛宕郡八瀬村の知行を安堵する朱印状に「深山」の茶壺を添えて贈っている。これが後世「十八万石の壺」と呼ばれる名器である。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに、康之と嫡男松井興長は藩主細川忠興に従って奮戦し、東軍勝利に貢献した。戦後細川氏は豊前国と豊後国(現在の福岡県と大分県の一部)で39万石余りの大名となり、康之は豊後国木付(杵築)城を任せられて2万5000石の知行地が与えられた。 興長は康之の次男として天正10年(1582年)に生まれ、兄が文禄・慶長の役で戦没すると嫡子となり、慶長16年(1611年)に康之が隠居すると家督を相続した。
※この「足利幕臣から細川氏の家老へ」の解説は、「松井氏」の解説の一部です。
「足利幕臣から細川氏の家老へ」を含む「松井氏」の記事については、「松井氏」の概要を参照ください。
- 足利幕臣から細川氏の家老へのページへのリンク