足利政権の分裂と正平一統
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 09:17 UTC 版)
「南朝 (日本)」の記事における「足利政権の分裂と正平一統」の解説
足利政権では将軍尊氏や足利家執事の高師直と実質的政務を任された尊氏実弟の足利直義が対立し、やがて全国的な争乱に発展する観応の擾乱が起こり、これを契機に南朝は再び勢力を回復する。1350年12月、師直の政治工作で失脚した直義は京都を脱出し、師直打倒の兵を募る。北朝は直義討伐の院宣を下し、南朝は直義の帰服に応じる。直義は師直を追い、さらに摂津で尊氏を撃破して和睦する。1351年(正平6年/観応2年)、巻き返しを図る尊氏が南朝に講和条件を出して和睦し、正平一統が成立して年号の統一が行われる。尊氏は鎌倉で直義を追い謀殺するが、南朝はこの機会に京と鎌倉を同時奪還する軍事的進攻を行い、北朝神器の接収、北朝の光厳・光明・崇光三上皇と皇太子直仁親王の拉致を行い一統は破談となる。京と鎌倉は足利方に奪還され、北朝は神器と治天が不在であったが後光厳の践祚により再建される。
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