足利氏(室町幕府)との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 16:10 UTC 版)
「垪和氏」の記事における「足利氏(室町幕府)との関わり」の解説
その縁で垪和氏は室町幕府の奉公衆となった。『文安年中番帳』五番に垪和筑前入道・垪和修理亮・垪和右京亮、『永享以来御番帳』五番に同三人、『常徳院御動座当時在陣衆着到』にも垪和右京亮が記されている。さらに垪和氏は室町時代に将軍側室、正室と深い関わりを持ち、それによって荘園代官など様々な権益を獲得した。 垪和氏は奉公衆として同じ幕臣との関わりが深く、出自である菅家党党首有元氏、太平記杉坂合戦でともに戦った美作角田氏も奉公衆、後北条氏臣下に見られる垪和氏は美作垪和氏が出自であり、同じ幕臣として当時奉公衆であった伊勢盛時(北条早雲)の駿河下向に従ったものと思われる。ただし、後北条氏の研究者である黒田基樹はその後、説を修正して堀越公方足利政知に従った奉公衆の垪和氏が、堀越公方の滅亡後に盛時に従って駿河国駿東郡の御厨地方を与えられたか、同地域で自立して国衆化して今川氏の傘下に入ったとしている。後に後北条氏と今川氏が対立すると垪和氏は後北条氏に付いたものの、河東一乱で御厨地方の支配権が後北条氏から今川氏に移ったために、関東に退いて後北条氏の被官になったとしている。今川氏の研究者である大石泰史も、河東一乱を機に後北条氏が葛山氏を介して(今川氏傘下であった)垪和氏を従属国衆を経て被官化していったとしている。
※この「足利氏(室町幕府)との関わり」の解説は、「垪和氏」の解説の一部です。
「足利氏(室町幕府)との関わり」を含む「垪和氏」の記事については、「垪和氏」の概要を参照ください。
- 足利氏との関わりのページへのリンク