足利氏の貴種性の喪失と下剋上
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「足利氏」の記事における「足利氏の貴種性の喪失と下剋上」の解説
足利氏(足利将軍家)とその一門の衰退については、応仁の乱や明応の政変、永禄の変などの個々の事件だけではなく、足利氏が室町時代を通じて維持してきた貴種性の喪失にその原因を求める説もある。 谷口雄太の研究によれば、足利尊氏は室町幕府の成立後に軍事力のみならず儀礼の整備などを通じて足利氏一門、特に将軍家の貴種性を高める努力を行い、その結果、足利氏一門は別格であるという認識が確立され、例え同じ格式の家同士でも足利氏一門はそれ以外よりも上位に位置づけられた。特別な功績を挙げた武家にも恩賞として一門の待遇を与えられることはあったがその獲得と維持は極めて困難であったの対し、血統によって足利氏一門とされた武家はその待遇を剥奪されることはなかった。そして、美濃源氏の土岐氏のように「御一家の次、諸家の頭」(足利氏一門には劣るが、それ以外の武家の中では一番の名門)と名乗る武家まで現れた。 ところが、応仁の乱の際に東西に分かれた室町幕府が自己を支持する武士をつなぎとめるために国人の越智氏や細川氏被官の安富氏を守護に補任しようとした。乱後も、将軍側近が「入名字」を行って形式的に足利氏一門などの養子となって幕府に取り立てられている。戦国時代に入ると、地方の大名を御相伴衆や御供衆に任じるようになり、天文15年(1546年)には三管領どころか足利氏一門でもない六角定頼が管領代に任ぜられ、永禄2年(1559年)には同じく足利氏一門ではない伊達晴宗と大友義鎮が足利氏一門のみが任ぜられてきた奥州探題と九州探題に任ぜられた。こうした措置は足利将軍から見て信頼出来る者、あるいは能力のある者を取り立てて幕府の再建を図ろうとした措置であったが、同時に身分間の壁が崩れたことで足利氏一門の貴種性を失わせていった。足利氏の貴種性の喪失は足利将軍側の思惑とは反対に足利将軍家や室町幕府の権威を否定する方向で日本全国に広がり、足利一門である守護大名は下剋上に巻き込まれて領国を失い、同じ足利一門でも吉良氏の支流であった今川氏が一門の秩序を無視して吉良氏や斯波氏を破って遠江国を奪う事態も生じた。更には、勝手に足利氏一門の末裔を名乗る者の出現をみたとする。つまり、谷口の論考によれば、足利将軍家や室町幕府を再建するために行った「上からの改革」が、結果的にはそれまでの身分秩序によって維持されてきた足利氏の貴種性ひいては足利将軍家や室町幕府の権威をも失わせて結果的には滅亡に至ったということになる。これに対して、後北条氏の支配下に置かれながらも書札礼などの儀礼的な秩序の維持を認められてきた古河公方(かつての鎌倉公方)が中央よりもわずかな期間であるが延命できたのは、足利氏の貴種性が関東地方では引き続き有効性を維持できたからと考えられている。
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